09 その美しい人は
突然の知らせに、華妃の周囲にいた女官たちがわっと沸き立つ。
それはそうだろう。
後宮嫌いで寵妃も作らない皇帝が、新しく入宮した妃の元を訪ねるというのだから。
「素晴らしいですわ」
「流石華充儀!」
女官たちは、華妃を称える言葉を次々に口にした。
満更ではないのか、華妃の顔には頬紅を凌ぐほどの赤みがさしている。
一方で、私は高いところから突き落とされたような気持とになった。
視界が黒く染まり、世界から音が消える。
まるで深い穴に落ちていくような気分だ。
見ているのは辛いのに、華妃の笑みから目が離せない。
そしてどれぐらいそうしていただろう。
一瞬だったはずだけれど、いやに長く感じた。
茫然とした私の背中を、春麗が支えてくれる。
はっとした。
「あ……」
「大丈夫です」
平気だと言う前に、春麗が私に言い聞かせるように言う。
その言葉に縋るように、そっと春麗を見上げた。
けれど結局、返事をすることさえできなかった。
頭が真っ白で、何も考えることができない。
私はそうして、喜びに沸く華妃一行の背中を見送ったのだった。
***
春麗と並んで春の野草を摘んでいると、突然足がもつれた。
素早く春麗が支えてくれたので転ばずに済んだが、箕に入れていた野草は地面に散らばってしまう。
慌ててしゃがみ込み、それらを回収した。
艾葉、笔头草、問荊、それに蒲公英。
どれも化粧水にしたりお茶にしようと思っていたものだが、いつもならわくわくする材料集めも、今日はちっとも楽しくない。
それどころか気が散っていて、この有様だ。
拾うのを手伝てくれた春麗も、心配そうな顔をしている。
「鈴音様。ご調子がすぐれないのなら休んでいた方が……」
控えめな忠告は、もう朝から何度されたか分からない。
それほどまでに、今の私はひどい顔色をしているらしい。
実際、ここのところあまり眠れない日が続いている。
暖かくなってきたのに、眠れなくなるというのもおかしな話だ。
その原因は、私自身ちゃんと分かっているけれど。
黒曜が華妃の房を初めて訪れてから半月。
あの日から毎日のように、黒曜は華妃の元に通っているのだそうだ。
後宮内での噂は、光の速度よりも早く広まる。
なんせ春麗以外碌な知り合いのいない、私の耳にすら入ってくるほどだ。
遂に寵妃の誕生だとか、空席の四夫人が一つ埋まる日も近いとか、気が早い話になるとご懐妊も近いのではという話まで。
以前とは違い、後宮全体が華やいでいる。
皇太后という絶対的な主を失い、消沈していたのが嘘のよう。
華妃の元には人が集まり、また他の妃たちも、皇帝の目に留まろうと蝶や花のように着飾っている。
それをいいことだと思うのに、心が痛いのはなぜだろう。
気にしたくはないのに、気にしてしまう自分が嫌になる。
それに、仕事にまで影響が出てしまうのなんて最悪だ。
なんとか自分を叱咤しながら、材料集めを切り上げて尚紅に戻る。
するとそに、思いもよらない人物が待ち構えていた。
「どこへ行ってたのよ!」
顔を真っ赤にしているのは、以前子美と呼ばれていた例の女官だ。
今度は何をしに来たのだろうかと、怖れと気疲れが同時に来た。
けれど彼女が口にしたのは、予想もしなかった言葉だった。
「華充儀のお召しよ!」
彼女は不本意そうな顔をしながら、私たちに怒鳴りつけたのだった。
***
跪いて挨拶をすると、優しい声が顔を上げるように言う。
「よく来てくれましたね」
華妃の涼やかな笑みは、以前 会った時と少しも変わっていはいなかった。
しかし取り巻きなのか女官の数が増え、房の中も贈り物で満ち溢れている。
中でも鴛鴦を象った品が目立つのは、皇帝と華妃を夫婦に見立てたご機嫌取りだろう。
現実を思い知らされた気がして、胸が痛んだ。
ひどくショックだったけれど、華妃にそれを悟られるわけにはいかない。
着いてきてくれた春麗が、心配そうに私を見ているのが分かる。
(しっかりしなくちゃ)
どうにか気持ちを切り替えると、無理矢理笑みを浮かべた。
ちゃんと笑えているかは、自分では分からなかったけれど。
「本日は、どのようなお召しでしょうか?」
私の代わりに、春麗が尋ねる。
義務的で、そこにはどんな感情も感じられない。
「以前言った通り、都で評判の化粧師に化粧をしてもらおうと思いまして」
どうかしらと、華妃が小首を傾げる。
尚紅の女官として、妃嬪の願いを断る理由はない。
「身に余る、光栄に存じます」
丸覚えの語句を口にすると、改めて拱手で礼をした。
目の端に、子美の悔しそうな顔が映る。
なぜ彼女は、頑なに私を目の敵にするんだろうか。
ふと、そんなことが気になった。