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08 消せない不安

 その夜。

 春麗が去って一人になり、鬘を外して床に寝ころんだ。

 板敷の部屋はまだ寒い。

 それでも一度横になると、もう起き上がる気にならなかった。

 こういう時、鬘は便利だと思う。

 他の女官たちのように地毛を結い上げていたら、こんなに気軽に寝転がったりできないだろう。

 私は、昼間見かけた華妃の姿を改めて思い浮かべた。

 すっきりと涼しい目元が印象的で、つやつやとした髪を高く結い上げていた。

 沢山の歩揺と、華やかな刺繍の襦裙。

 後宮には綺麗なお妃さまが沢山いるけれど、その中でも彼女の美貌は目を引く。


(だから、黒曜が彼女に目を止めても、ちっともおかしいことじゃないんだ……)


 そう思うと、昼間と同じように胸が痛んだ。

 その痛みはよくなるどころかひどくなる一方で、私はそれを堪えるために丸くなる。

 目をつむっても、瞼に浮かぶのは二人が並んだ姿だ。

 綺麗だけど怖い印象の黒曜と、凛として艶のある華妃。

 実際に二人が並んだところを見たことはないけれど、その姿はとてもお似合いに思える。


「覚悟が、足りなかったなあ」


 ぽつりと呟く。

 春麗が帰ってしまうと、尚紅は本当に静かだ。

 小さな呟きが思った以上に大きく感じて、それがより一層私をやるせない気分にさせた。

 この三か月の間、たまに想像することもあった。

 この先ずっと後宮に残ったとして、いつか黒曜に本当に愛する人ができたら、私はどうするのだろうかということを。


 黒曜は皇帝だ。


 だから子孫を絶対に残さないといけない。

 子供がいないまま皇帝が死ぬと、跡目争いが起きて国中が大変なことになるのだという。

 そのために遥か昔に後宮ができたのだと、黒邸で私を指導してくれた老師に聞いたことがある。

 だから今でこそ、後宮が嫌いだと言って碌に寄り付かない彼だけれど、ずっとそういうわけにはいかないだろう。

 黒曜は私に、後宮に残ってほしいと言った。

 私はそれが嬉しかった。

 だからいつか黒曜に皇后を迎え入れても、別に関係ないと思っていた。

 私たちの信頼関係は変わったりしない。

 それでいいじゃないか、と。


「なのに……」


 だというのに、新しい妃がきたというだけでこの有様だ。

 ショックを受けている自分が、情けなくなる。

 この世界では身寄りもない私が、皇帝である黒曜とどうにかなるはずもないのに。


(馬鹿だ私。華妃に嫉妬するなんて……)


 胸の痛みにそう思い知らされて、その日は眠れない夜を過ごした。


 

  ***



 数日後

 それは天気のいい日だった。

 私はしばらく寝不足気味で、目の下の隈を化粧で隠している状態だ。

 未だに、あの日感じた胸のもやもやが晴れないでいる。

 春麗と二人回廊を尚紅へ向かって歩いていると、突然後ろから声を掛けられた。


「あらぁ」


 どこか悪意のあるその響きに、恐る恐る振り返る。

 するとそこにいたのは、先日尚紅で女官たちの先頭にいた、小柄な女性だった。厚化粧もあの日と同じだ。

 私は思わず、春麗を隠すように一歩前に出た。

 それを見て、彼女はおかしそうに鼻を鳴らす。


「ふん。対食趣味とはおそれいるわね」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 対食というのは、男性のいない後宮で女官同士が結婚した者を言う。

 後宮には宦官以外の男性がいないので、自然とそういうカップルが生まれるのだそうだ。

 けれどまさか、自分と春麗をそんな風に揶揄ってくるなんて、思いもしなかった。


「無礼な!」


 驚きに声をなくしていると、春麗が怒りの声を上げた。

 彼女には珍しく相手に掴みかからんばかりの勢いだったので、慌てて止めに入る。

 後宮での暴力沙汰はご法度だ。

 だからこそ、女たちは言葉の剣を研ぐのかもしれない。


「何事かしら?」


 そこに、新たな人物の声がした。

 現れたのは、先日初めて見たばかりの華妃だった。

 私は慌てて膝を折る。

 自分より位の高い人に出くわした場合、こうして許しがあるまで顔を上げてはいけないのだ。


「子美、そちらは?」


 鈴を転がすような声だった。

 美人は、やはり声まで美しいものらしい。

 そして例の女官が子美という名前であることを、私はその時初めて知った。


「尚紅の女官たちです。華充儀がお気になさるような者達ではありませんわ」


「ほう、では彼女が噂の?」


 華妃の声音に、浮き立つような色が混じる。

 子美の焦った声が聞こえた。


「噂だなんて……異国の化粧師が物珍しいだけでしょう」


「それでも、宰相の奥方は彼女が大層お気に入りだとか。わたくしもぜひその腕を拝見したいわ。二人とも顔をあげて」


 優しく声を掛けられその通りにすると、そこに立っていたのは美しく着飾った仙女のような人だ。

 しかし子美が施したのか、その化粧はとても濃くて彼女の良さを殺している気がした。


(もったいない)


 思わずそんな感想を抱く。


「尚紅は既に解散になったと聞きました、そなたたちはそこの女官なのですか?」


「その通りでございます」


 呆けた私に代わって、春麗が答えた。


「異国からきた化粧師というのは、お二人のどちらかなのですか?」


「それは我が主のことかと」


 口をはさめずにいる内に、春麗がどんどん話を進めてしまう。

 私は慌てた。

 華妃が耳にした噂がどれほどのものかは知らないが、自分がその期待にこたえられるか自信がなかったせいだ。

 先日の講義の一件で、私はすっかり自信を失っていた。


「主とは、そちらの……?」


 華妃の、涼やかな視線に射抜かれる。

 ほほ笑んでいるように見えるのに、その目は不思議な色をたたえていた。

 値踏みするような、推し量るような、そんな瞳だ。

 私はごくりと息を呑んだ。


「尚紅筆頭女官。鈴音様です」


「ほう、鈴音とは。変わったお名前ね」


 華妃が首をかしげる。

 私は子美を一瞥した。

 このまま口を閉ざしているわけにはいかないが、彼女の前で言葉を喋るのは勇気が必要だった。

 でも、ずっと黙り込んでいるわけにもいかない。


(ええい! この時のために頑張ってきたんだから。あとは当たって砕けろ!)


 覚悟を決めて、口を開く。

 単語を少なくして、ゆっくりと喋れば大丈夫なはず。


「異国より……参りました。華充儀におかれましては、ご機嫌麗しく」


 春麗に習った目上の人に対する挨拶を、恐る恐る口にする。

 子美の顔が歪んだ。

 対して、春麗は優しい顔でひっそりとほほ笑む。

 私は自分の挨拶が、間違っていなかったことを知った。


「異国の方だとお聞きしていたけれど、言葉が随分お上手ね」


「あ……習う、したんです。まだまだですが」


「いいえ、とってもお上手だわ」


 優しく褒められて、私は華妃に好感を抱いた。

 胸をばくばく言わせていた緊張が、少しだけ和らぐ。


「鈴音。ぜひあなたに化粧をしてもらいたいわ」


 華妃がにっこりとほほ笑む。

 勿論だと返事をしようとした時だった。

 突然、女官が慌てた様子でこちらに駆けてくる。

 貞淑を叩き込まれた女官が、裙子(スカート)を振り乱して走るなんて余程のことだ。

 何事かと、全員の視線がその女官に集中した。

 彼女は華妃を見つけると、猛然とこちらに飛び込んできた。


「なんですか、騒々しい」


 虫の居所が悪いのだろう。子美が眉を吊り上げる。

 はあはあと息を切らせた女官が、何かを伝えようと必死に口を動かしていた。


「落ち着いて。ゆっくりでいいわ。焦らないで」


 華妃は女官を咎めるでもなく、その背中を優しくさする。

 優しい人だ。

 女官が叱られずに済んで、私はなぜだかほっとした。


「へ、へいかが……」


 ようやく呼吸の落ち着いた女官が、切れ切れに言葉を紡ぎ出す。

 その言葉に、私は心臓が掴まれたような衝撃を覚えた。


「陛下が今夜、華充儀を(おとな)いになると!」

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