05 思わぬ逆風
翌朝目が覚めると、すぐに溜めておいた雨水で顔を洗った。
むくんだ顔が、ひどく不細工だ。
芙蓉や春麗ほどとは言わないまでも、美容を教えるからには少しはまともな自分でいたい。
「鈴音様、お疲れですか?」
春麗が差し出してくれる手巾で顔を拭うと、ふうと一息ついた。
答えずにいると、春麗の言葉に咎めるような色が混じる。
「まさかまた、夜更かしなさったんですか?」
私はぎくりとした。
夜更かしなんて、するつもりはなかったのだ。
手紙を書き終えたら、ちゃんとすぐに寝るつもりだった。
けれど黒曜が来て、彼が帰った後もなぜかすぐには寝付けなかった。
そんなこと、正直に話せるはずもない。
「ああ、ええっと……」
言葉を濁すと、春麗が真っすぐ私の目を見て言った。
「尚紅再開でご無理をなさっているんですから、休める時には休んでいただかないと」
淡々とした言葉になぜか威圧感を感じ、首をすくめる。
以前勝手に化粧をして春麗を怒らせたことのある私は、基本彼女に頭が上がらない。
「ただでさえ今日は、女官を集めた初めての講習なのですから」
ため息交じりの春麗の言葉に、忘れていた不安と緊張が襲い掛かってくる。
人のいなくなった尚紅を、立て直してほしい。
それが私を引き留めた黒曜の願いだ。
後宮を出て城下で化粧師をしようとしていた私は、その願いを受け入れてここにいる。
しかし引き受けたはいいけれど、不安がないわけじゃない。
なにせ専門学校を卒業していよいよ第一歩を踏み出すという時に、この世界に飛ばされてきてしまったのだから。プロのメイクアップアーティストというにはあまりにも未熟な私が、一体どこまでできるのか。
(誰かに化粧するだけならまだしも、人に教えるなんて本当にできるのだろうか……)
不安はあるが、やらないわけにはいかない。
(黒曜も春麗も、私ならできるってそう信じてくれてるんだ。準備だってちゃんとしたし、落ち着いてやればちゃんとできるはず!)
そう思って、今日の講習に臨んだのだけれど、待っていたのは思いもよらない出来事だった。
***
暁鼓が鳴り響く。
太史局が、五更五点の明け方を知らる太鼓のだ。
それは朝賀の始りを知らせる合図であり、私が講習のために元尚紅の女官たちを呼び寄せた時間でもあった。
「どういうこと……?」
なのに、私が寝起きしている尚紅の房は、いつものようにがらんとしていた。
本当なら元尚紅の女官が、三十人近く集まっているはずだ。
今日のために間違いなく告知をしたし、その一人一人に簡単な案内状も渡してある(清書したのは春麗だけれど)。
ところがそこで所在なさげにしている女たちは、十人にも満たなかった。
それも全員が、今にも帰りたいというような不満顔だ。
(講習の知らせに、何か不備があったの?)
(それともなにか、彼女たちの気に障るようなことをしたとか?)
今日までの自分の行動を思い返してみるが、これといった落ち度は思いつかなかった。
動揺で何も言えなくなっていると、カタンと戸の開く音がする。
そちらに視線を向ければ、揃いの女官姿の女性が数人新たに房に入ってくるところだった。
(なんだ、少し遅れてるだけだったんだ)
喜び勇んで、彼女たちを迎える。
しかしどうぞどうぞと招いても、彼女たちは決して中に入ろうとはしなかった。
真ん中にいた吊り目の小柄な女性が、一歩前に出る。
その顔は完全武装といった雰囲気で、驚くほどの厚化粧だ。
私は驚いてしまい、しばし言葉をなくした。
よくよく見れば、他の女官たちも同様の化粧をしている。
「あなたが、噂の化粧師様ってわけ?」
鼻息荒く詰め寄られ、息を呑んだ。
「え、ええそう、です」
すると彼女は、まるで親の仇のように私を鋭く睨みつけた。
「なんで我ら伝統ある後宮の化粧師が、異国からきた小娘に教えを請わねばならないのでしょう?」
言葉の意味が分からず、唖然としてしまう。
そんな私を庇うように、春麗が前に進み出た。
「この度の尚紅再建を、お命じになったのは皇帝陛下ですよ。鈴音様への暴言は、そのまま陛下への侮辱となりますがよろしいか?」
「これはこれは、皇太后の狗風情が、今度は取り入る相手をお変えになったのかしら?その変わり身の早さには、お見逸れしますわ」
「なっ!」
春麗を侮辱する言葉に、思わず身を乗り出した。
「その言葉、撤回する、ください!」
私なら何を言われても構わないが、色々と手を尽くしてくれている春麗をを侮辱されるのは許せない。
しかし素早い動きで手を広げた春麗に、押し留められてしまった。
「なぁにその言葉遣い。やっぱり異国の者は粗野と、相場が決まっているわね」
女官は私を侮蔑するような、歪んだ笑みを浮かべた。