04 若き皇帝の悩み
「こんなに笑ったのは、久しぶりな気がする」
茶器をあっという間に空にしてしまった黒曜に、私はお代わりを注ぐ。
「なにか、大変事? 黒曜、とても疲れてる見えるよ?」
思い切って尋ねると、彼は複雑そうに笑った。
私に話しても分からないと思っているのだろう。
それはそうかもしれないが、壁を作られたように感じて少しへこむ。
だからかもしれない。反射的に、そんなことを言ってしまったのは。
「役、立てないけど、話してくれる嬉しい。私も一緒、悩むよ!」
そう叫んで、気付けば黒曜の手を握り締めていた。
冷たい指先だ。
黒曜の手はかさついていて、そこからも彼の疲れが伝わってくるようだった。
「ちょっと待つ、して!」
黒曜が呆気に取られている間に、私はつい先日作ったばかりのカスターオイルのハンドクリームを持って椅子に戻った。
手荒れがひどいという女官のために作ったものだが、今の黒曜にはぴったりかもしれない。
蜜蝋と混ぜ合わせたカスターオイルは、とても滑らかだ。
その白い塊を手に乗せ、もう一度黒曜の手を取る。
まずは右手から。
両手の小指を親指と小指に引っ掛けると、手のひらが自然と開く。
「お、おい……」
「いいから!」
戸惑う黒曜に構わず、私は自分の中で慣れた手順を辿っていく。
フェイスマッサージと同じで、これもわがままな姉仕込み(?)だ。
まずは親指と小指の付け根。次に手のひらの真ん中の窪みを、ゆっくりと揉み解す。
力は少し強めな方がいい。
更に指の股にある水かきをほぐしていくと、黒曜の手がじんわりと温まってきた。
驚いて強張っていた顔も、少しずつリラックスしたそれへと変わる。
嬉しくなって、私は右手に続いて左手にも同じ動作を繰り返した。
黙って作業していると、気づまりになったのか黒曜が口を開く。
「そ、そのだな、悩み、なんだが……」
「うん?」
黒曜の手にばかり注目していたので、顔を上げるとなぜか相手は目を逸らしていた。
彼はそのままで、言葉を続けた。
「いないんだ」
「いない?」
「ああ。仕事のできる、まともな官吏が」
そう言って、黒曜は重いため息をついた。
「それ、困るでしょう?」
政治のことは分からないが、部下がまともに仕事をしてくれなければ、上司は困るだろう。
「そうだな。おかげでしわ寄せが全部こちらへきている。誰もが足の引っ張り合いに汲々として、民の暮らしを顧みようとしない。黄帝に国を預かったものとして、これは由々しき事態だ」
黄帝というのは、昔々の、ちょっと人間離れした力を持ったといわれる皇帝だ。その人を祀る廟もあるので、先代というよりは神様というのが正しい。
黒曜との関係は、日本の天皇陛下と天照大神のそれに似ている。
「まあ、仕方のない面もある。皇太后は己に媚び諂う佞臣ばかりを重用し、勇気をもって諫言した者には制裁を加えた。多くの心ある者たちが、処罰され、或いは失望して自ら城を去っていった。私がこれからすべきは、それら悪心を持つ臣を退け、身分の別なく有能で真心ある臣を得ることだ。ところがこれが大層難しい……」
難しい言葉が多く、私には言葉の意味を理解するだけで精いっぱいだった。
黒曜が黙り込むと、私も何といっていいのか分からず黙り込んでしまう。
悩みを聞くと言ったのに、これでは本当に聞くだけだ。
政治のことでは役に立てないけれど、せめてもこれぐらいはとマッサージする手に力が入った。
ちょうど合谷(親指と人差し指の付け根にある、いろんなことに利くけれど痛いツボ)を圧したところだったので、黒曜の腰が浮いた。
「いっ!」
「ごめん! 痛かったアル?」
慌てて圧すのをやめ、宥めるように手の甲を撫でた。
冷たくかさついていた指が、すっかり柔らかさを取り戻している。
すっかり固くなったペンダコと剣ダコが、持ち主の頑張りを私に教えてくれる。
「私には、見ているしかできないけど……それでもずっと、見ている。黒曜が、誰もが安心して暮らせる国、作るのを……」
顔を上げると、蝋燭に照らされた黒曜の顔が、真っ赤に染まっていた。
そらされていた目にまっすぐに見抜かれ、息が止まりそうになる。
私は慌てて手を離した。
どうして平気でいられたんだろう。
顔が燃えるように熱い。
「あ、ああ……」
まるで隠すように、黒曜は自分の手を長い裾の中に隠してしまった。
「や、夜分遅くまで失礼した。茶をありがとう」
そう言って、彼はロボットのようにぎこちなく房を出ようとする。
途中机にぶつかったりしたので、私は黒曜が心配になった。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫だ! 邪魔をした!」
そう言って、黒曜は尚紅から出て行った。
しかし慌ただしい足音が、すぐに戻ってくる。
何事かと思っていたら、出て行ったばかりの扉からひょいと顰め面が覗いた。
「お前っ」
「なに? 忘れものアルか?」
「さっきのようなことを、俺以外の男にするなよ!」
そう言い捨てると、今度こそ黒曜はどすどすと足音荒く去っていった。
私はその場にぺたりとへたり込む。
鼓動が高鳴って仕方なかった。
自分の心臓の音が、耳に痛いくらいだ。
しんとした房の中で、ぽつりと呟く。
「そんなにうるさくしたら、お忍びの意味、なくなっちゃうんじゃ……」
誰も見ていないのに、思わず両手で顔を覆った。
マッサージを終えたばかりの手は、しっとりと肌に馴染む。
それが余計に恥ずかしくて、何も考えられなくなった。
蝋燭の明かりだけが、何事もなかったように暖かな火を揺らし続けている。