36 エピローグ
後宮に戻ってからも、黒曜は忙しいのかなかなか会うことができなかった。
余程忙しいらしく、華妃のところにも訪れはないらしい。
後宮ではそれによって色々な噂が囁かれたが、華妃自身は気落ちした様子はなくむしろすっきりとした顔をしていた。
周囲の反応なんてものともしないその態度は、気高くてとても素敵だ。
華妃はなにかと私を気にかけてくれて、化粧をする以外にもたまに一緒にお茶をするようになった。
女性らしく素敵だと思っていた彼女だが、親しく付き合ってみると可憐というよりも随分と凛々しいことに気が付く。
心なしか言葉遣いや立ち居振る舞いも、以前より男前になったようだ。
一緒にいると、そのあまりのかっこよさにどきどきしてしまうことすらある。
頼まれたわけじゃないけれど、いつか彼女には男役のようなきりりとかっこいい化粧を、してみたいとひそかに夢見ていたりする。
きっと凄く似合うに違いない。
ちなみに尚紅はといえば、戻ってみると講習に訪れる女官が増えていた。
どうやら尚紅に所属はしていなくても、主に学んでくるよう命じられた女官や自ら化粧を学びたいという女官が集まっているらしい。
所属は関係なく、化粧を学びたいと集まってくれるなら誰でも大歓迎だ。
私は花琳に書いてもらった参考書を、子美と春麗に頼んで沢山複写してもらった。
基礎的な内容しか書かれていないけれど、それでも画のおかげで分かりやすいと好評だ。
今度花琳に会う機会があったら、また新しいテキストを一緒に作りたいと思う。
勿論私は全力で、墨を磨る手伝いをする所存だ。
読み書きはまだまだ苦手だけれど、花琳の書いたテキストを見本に練習もしている。
墨を磨る以外の手伝いができるようになる日も、近い―――のかもしれない。
尚紅は順調だけれど、子美と春麗の仲は順調とはいいがたい。
前に子美が春麗に言った暴言を思えば仕方ないのかもしれないけれど、春麗はとにかく子美に冷たいのだ。
そして子美の方も、負けずに春麗に突っかかっていく。
いつか打ち解けてくれればなあと思いつつ、今は成り行きを見守っている。
噛み付く子美に春麗は徹底的な無視という方法で対応しているので、喧嘩にならないのが唯一の救いかもしれない。
(二人とも私に対しては気遣ってくれるし、本当はとても優しい人達なんだけれどなあ)
そんな慌ただしくも充実した日々が過ぎて、季節は夏になった。
季節を反映する妃達の襦裙の刺繍や釵も、梅樹や碧桃ではなく八仙花や蓮花の意匠に変わる。
庭院にもそれらの花が咲き誇り、ずっと後宮の中にいても季節の移り変わりは目に鮮やかだ。
襦裙の生地が薄くなり団扇が手放せなくなってきた頃、私は深潭からの呼び出しを受けた。
何事だろうかと、外廷と後宮を隔てる両儀殿に向かう。
そこには後宮の中の人と外の人が面会できる施設があって、呼び出されたのもそうした房の一つだった。
宦官に案内されて中に入ると、どうやら位の高い妃専用の部屋のようで、驚くほどに内装が豪華だ。
けれどそれよりも私を驚かせたのは、部屋で待っていた三人の男達だった。
お忍びなのか、城の中なのになぜか官吏姿の黒曜と、深潭。
そしてもう一人は、余暉だった。
括った髪を肩から垂らし、黒曜と同じように官吏の格好をしている。
「余暉!?」
思わず叫ぶと、深潭に静かにするよう叱られた。
こんなの驚いて当たり前なのに、その注意はなんだか理不尽だ。
恐る恐る、私は余暉に近寄った。
手を伸ばすと、確かに触れる。
夢じゃないのは間違いない。
二度と会えないかもしれないと思っていた人とのあっけない再会に、私は驚くばかりだった。
それが顔に出ていたのだろう。余暉は私を見下ろして苦笑いを零した。
「小鈴、口が空いている」
余暉が人差し指で、ついと私の口を閉じさせる。
間抜けな表情をしていたと気付いて、恥ずかしくなった。
しかし照れる暇もなく、がくんと体勢が崩れる。
何が起こったのかと驚いて、しばらくしてから黒曜の腕の中にいると気が付いた。
どうやら横から抱き寄せられたらしい。
最近の黒曜は、頻繁に抱き寄せてくるものだから困りものだ。
私に親しみを感じてのことかもしれないが、私の方はそうはいかない。
予想もしていなかった接触に、心臓が破けそうになる。
「は……」
離してと言う言葉が、喉に張り付いて出てこなかった。
ラストスパート!
あと一話で最後です