34 稀代の昏君
臘日の後、鈴音からの手紙を受け取った翠月―――余暉は、なんとか彼女を取り戻さんと過去に捨てた華家の名跡を継ぐことにした。
家名が、権力がなければ何も思い通りにはならないと、嫌というほど思い知っていたせいだ。
運良く過去に面識のあった蘇全忠は健在で、祖母に似た容姿と過去の記憶で翠月だと認めてもらうことができた。
そして彼から聞かされたのは、思ってもみなかった真実だ。
祖父と父の罪が完全なる冤罪で、皇太后の都合によって処されたものであること。
臘日の宴で遠目とはいえ皇太后と対面していた彼は、深い後悔を味わった。
今更弔い合戦などするつもりもなかったが、すぐ目の前に仇がいたのだと言われれば、冷静ではいられない。
しかもその忌まわしい女は、皇帝を殺そうとした罪で既に離宮送りになっている。
稀代の悪女を逃さないよう、離宮の警備は水も漏らさぬ厳しさだという。
もうあの女を、この手で殺すことはできないのだ。
そう思った時、なぜか翠月の胸に、今まで忘れていた復讐心が蘇ってきた。
祖父と父を無残に殺された恨み。王都を追われ、惨めに死に絶えた母と妹の無念。
ぶつける相手のない感情醜く燃え上がり、内側から翠月を食い破らんばかりだった。
可愛がっていた鈴音が自分よりも後宮を選んだという失望もまた、彼を自暴自棄にさせた。
そして翠月は、自らの命を懸けた賭けをすることにしたのだ。
それは、翠月に罪悪感を持つ全忠の孫娘を使って、己の命と皇帝の命を天秤にかけるというものだった。
瑞英の判断一つで、皇帝諸共死ぬか、それともどちらも生き残るかの危険な賭け。
実行の日時も方法も、全ては瑞英に委ねた。
翠月はいつ訪れるかも話わからない瞬間を、静かに待っていたのだ。
おかしな話だが、この賭けに興じている間、翠月は自分が生きていると実感することができた。
妹が死んで以来死んでいたと思っていた心が、沸き立つように感じたのだ。
“余暉”という亡霊が消え、華家の“翠月”が蘇った気がした。
そしてその賭けは、皇帝が生き翠月のみが死ぬという、想定していなかった第三の結果を迎えた。
―――これも俺の運命か。
翠月は静かに、その運命を受け入れることにした。
鈴音の去った王都に、もう未練はない。
敵討ちも果たせず賭けにも負けたのなら、潔く死のう。
そう思った。
「願いがある」
突如そう言った翠月に、龍宝は不思議そうな顔をした。
「なんだ?」
「瑞英の罪を減じてはもらえないだろうか? あの女は己の忠義に従っただけだ」
翠月は瑞英を覚えていなかったが、瑞英の方は幼い頃に一度見ただけの本家の息子を覚えていた。
祖父から過去の悔恨を言い聞かされて育った彼女は、翠月の無謀な賭けにただ従ってくれただけなのだ。
「あの娘も同じことを言っていたぞ」
龍宝はつまらなそうに言った。
「“自分はどうなっても構わないから、主をどうか助けてほしい”と」
「―――っ」
「元々、絶対に処罰しないという約束の元に聞き出したことだ。約束は守る」
殺されかけたというのに、妙なことを言う男だ。
幼い頃から皇帝として生きてきた男を、翠月は改めて見つめた。
彼にとって命を狙われることなど、その程度のことなのかもしれない。
幼い頃から身分を偽って逃げ続けた翠月と、同じか或いはそれ以上に。
「今日俺がここに来たのは、こんな話をするためじゃない」
これ以外に重大な話なんてあるのかと、翠月は訝し気な顔をした。
そんな彼に向って、龍宝は不敵に笑って見せた。
「別の方法で、国に復讐してみないか?」
どうやら翠月の考えていた以上に、この皇帝は昏君であったらしい。
瑞英は彼の一体どこを、信頼に値すると思ったのだろうか。
翠月には、それが心底不思議だった。