31 対峙する二人
恐怖に叫ぼうとして、口を大きな手のひらでふさがれる。
体ががたがたと震えた。
(怖い……っ)
背中に感じるがっしりとした体格や、大きな手は明らかに男のものだ。
自分一人の力ではどうやったって振りほどけそうにない。
すぐに余暉が戻ってくると、必死に自分に言い聞かせる。
鼓膜にはどくどくと自分の心音がうるさいほどで、体からはどっと冷や汗が噴き出した。
「おいっ」
侵入者の声には焦りがあった。
「無事か? 何もされてないか?」
低く押し殺した声が、なぜか私を心配している。
何を言っているんだろうと思ったところで、その声に聞き覚えがあることに気が付いた。
私が落ち着いたことに気付いたのだろう。男が口に当てた手を外した。
恐る恐る振り向くと、やはりそこに立っていたのは予想通りの相手だった。
私は再び驚きで、思わず叫びそうになった。
「なっ!?」
そしてもう一度、口を手のひらでふさがれる。
「静かにしろ。忍び込んだ意味がなくなる」
「だっ……なんでこんなところにいる? 黒曜」
顔を突き合わせ、私はその名前を呼んだ。
その人は確かに、私の知るこの国の皇帝だった。
***
「無事だったか……鈴音」
黒曜は私の疑問には答えず、ただ安堵の溜息を漏らした。
「約束の場所に現れないと聞いて、肝が冷えたぞ」
黒曜が、何のことを言っているのかすぐにピンときた。
子美だ。
今日出迎えることのできなかった彼女が、その旨を黒曜に報告したのだろう。
心配させるかもしれないとは思ったが、まさか本人が、しかも一人で乗り込んでくるとは思わなかった。
あたりを確認するが、黒曜の他にそれらしい人影はない。
「黒曜、どうしてこんな無茶を―――」
「無茶というなら、お前の方だ。俺がどれだけ心配したと思ってる!」
私の言葉を遮り、黒曜は強く私の体を抱きしめた。
ゆったりとした服を着ている時には分からないが、がっしりとして鍛えられた体だ。
思わず顔が熱くなる。
こんな風に抱きしめられたのは、後宮に引き留められた時以来だ。
「黒曜……」
会えなくて寂しかったとか、本当は華妃が好きなんでしょうとか、後宮にいる間感じていたわだかまりが吹き飛んだ。
おずおずと抱きしめ返すと、背中に添えられた黒曜の腕に力が籠った。
「とにかく今は、後宮へ帰ろう。華家の当主は危険だ」
「え?」
一瞬、黒曜が何を言っているのか分からなかった。
しかし問い返そうとする前に、私たちの会話は第三者によって遮られてしまう。
「我が妹に対する無礼は、そこまでにしてもらおうか」
庭院に響き渡ったのは、怒りを押し殺した余暉の声だ。
「余暉!」
彼の存在を思い出し、恥ずかしくなって黒曜を突き放そうとする。
しかし力で勝てるはずもなく、体は相変わらず黒曜の腕の中だ。
「鈴音は我が妃だ。返し貰う」
「賊が何を世迷い事を」
余暉の手元に、突如白い刀身が現れた。
鋭い切っ先に身が竦む。
あの優しい余暉が、剣を抜いたのだ。
「やめて! この人は賊なんかじゃ!」
「小鈴、待っていろ。今助けてやる」
「余暉、私の話聞くして! 剣持ち出すしないで!」
黒曜を庇おうと手を広げるが、逆に背中に追いやられてしまった。
(どうして? だって余暉は一度、城で黒曜に会ったことがある筈なのに!)
私の焦りを他所に、黒曜もまた剣を抜いた。
「黒曜!」
(どうしよう、どうしたらいい?)
頭はパニック状態だ。
このままでは余暉は皇帝に剣を向けた大罪人になってしまうし、黒曜は黒曜で困ったことになるに違いない。なんせお忍びでここにきているのだから。
なかなか後宮に帰れずにいた自分のせいだと思うと、激しい後悔が押し寄せてきた。
しかし今は思い悩んでいる暇はない。
(早く誤解を解かないと)
黒曜の背中に取りすがり、私は叫んだ。
「黒曜、余暉―――翠月いい人、危険ことない!」
言いながら、なんて説得力のない言葉だろうと思う。
お互いに剣を抜きあっていれば、いい人もなにも関係ないだろう。
「余暉! 先に剣収めるして! この人はこの国の皇帝よっ」
力の限り叫んだが、余暉は剣を収めたりしなかった。
優しい口調で、彼は言う。
「小鈴。お前は混乱しているんだ。この男は邸第に忍び込んだ曲者で、それ以上でもそれ以下でもないさ」
その落ち着きぶりが、逆に恐ろしかった。
ざっと背中が粟立つ。
私は直感的に、悟ってしまった。
余暉は恐らく―――黒曜を皇帝と知った上で剣を向けているに違いない。
よく考えてみれば、国によって家族を殺された余暉にとって、黒曜は直接ではないとはいえ仇の親玉のような相手だ。
憎くないはずがないだろう。
「惨めに首を切り離して、広間にでも晒してやろうか。我が祖父や父のようにっ」
次の瞬間、私は黒曜に突き放されていた。
余暉が切りかかってきたのだ。
背中から倒れ込んだ私は、慌てて上半身を起こした。
「いっ!」
立ち上がろうとしたが、挫いたのか足首が痛む。
そしてその間にも、余暉と黒曜は数度斬り結んでいた。
明かりのない夜のことだ。
月明りだけでは二人の動きを、完全に追うことはできない。
ただ時折月光を反射する二本の細長い光が、血に染まっていないかはらはらと見守る。
二人の実力は肉薄しているのか、しばらくはそんなやり取りが続いた。
しかし段々と、素人目にも余暉の方が押されていると分かるようになった。
じりじりと黒曜が押している。
それに焦ったのか、剣を振り上げた余暉の胴ががら空きになった。
黒曜が低く踏み込む。
「やめて―――!」




