30 忍び寄る影
「鈴音……」
「小鈴、呼んで。余暉が嫌思うしないなら」
「っ、小鈴」
「私余暉のこと、この国の哥哥思うよ。いつか明鈴のお墓行って、哥哥借りてごめんなさい言う。だからそんな、昔のことみたい言わないで!」
気付けば、涙が零れていた。
涙と鼻水で汚れた顔を、余暉の胸板に押し付ける。
さらさらとした感触は、きっと絹だろうに。
頭の片隅で申し訳ないなあと思った。
けれど、身代わりでもなんでも、突然放りこまれたこの国で余暉は確かに私の兄だった。
右も左もわからなくて、言葉すら通じず困っていたところに、唯一手を差し伸べてくれた人だ。
心の中では何度も、明鈴にごめんなさいと謝っていた。
後宮に戻れば二度と会えなくても、それでも私は余暉を家族だと思い続けるだろう。
そう分かっていたから。
***
翌日は一日、余暉と一緒に過ごした。
離れていた間の色々な話をして、感じていたわだかまりがほどけていくのを感じた。
まるで時が戻ったようだ。
花酔楼にいた頃のように、私たちは何でもない話で笑いあった。
何を勘違いしたのか、お世話係のお姉さん達の態度も元通り。
朝からにこやかに豪華な襦裙を着せてくれた。
別に言いと言ったのだけれど、旦那様の命令だからと譲らない。
今日は特別に旦那様が選んだ衣装なんですよと、そう言われればこちらだって悪い気はしなかった。
楽しい一日だったけれど、唯一問題だったのはずっと余暉と一緒にいたせいで子美に会いに行けなかったことだ。
黒曜には心配をかけてしまったかもしれない。
子美は怒っていることだろう。
(次に会ったら、謝ろう)
そう思いつつ、夜になった。
明日になったら、この邸第を出る。
私はそう心に決めていた。
このままではずるずると、ここに居残ってしまいそうだからだ。
問題は、どのタイミングで余暉にそれを言うかだった。
後宮に戻ることは伝えてあるにしても、それがいつなのかまではまだ知らせていない。
余暉はがっかりするだろうか。
これ以上余暉に寂しい思いをさせたくなくて、どうしてもその話をするのが躊躇われた。
私がいなくなったら余暉が寂しがるだなんて、思い上がりかもしれない。
それでも、夜中に訪れた客を凶手と勘違いする彼を、一人残していくのは心が痛むのだった。
昨日が待宵月だったので、今夜は満月だ。
黄色くまん丸の月が空に浮いている。
それを見て、私は黒邸で見た月を思い出した。
あの夜の月は弦月だったはずだ。
だとしたら、もうあれから半月は過ぎている。
のんびりとはしていられない。
「余暉」
四阿から中庭を眺めながら、私は話を切り出した。
「明日……戻る。後宮に」
「そうか……」
余暉が口にしたのはそれだけだった。
どんな顔をしているのだろうと思ったけれど、その表情は影になってよく見えない。
私も釣られるように黙り込んだ。
また会いに来るなんて、無責任なことは言えない。
今回のことはあくまで特例で、一度後宮に入ったら何年も外に出られないのが普通だからだ。
それに私は、黒曜の築く国を傍で見守ろうと、そう心に決めていた。
だから彼に追い出されない限り、自分から後宮を出るつもりもない。
余暉が心配で傍にいてあげたいという気持ちと、自分が黒曜の傍にずっといたいという気持ちは、私にとってはちらも大切で、だけどけっして両立はできるものではない。
二つ同時に選べないのなら、どちらかより大切な方を選択するしかないじゃないか。
「少し、冷えるな」
ぽつりと余暉が呟いた。
言われてみれば、昼間よりも吹く風が冷たくなっている。
「何か羽織るものと、お茶を持ってこさせよう。少し待っていてくれ」
そう言って、余暉は四阿を後にした。
本当は声を掛ければどこかに使用人がいるはずで、余暉自らが席を立つ必要などないはずだ。
それでもわざわざ席を外したのは、一人になりたいからだろうか。
私はぼんやりと月を見つめていた。
そうして―――しばらく経ってからだ。
庭院に、カサリと庭木の揺れる音がした。
はじめは気にしなかったが、それが近づいてきていると気付いた時ぞっとした。
そんなゆっくりと忍び寄る風がある筈がない。
慌てて立ち上がるのと、がしりと二の腕を掴まれたのは同時だった。