03 訪れ
一人きりになると、尚紅はいやに静かだ。
遠くで、冬眠から目覚めた蛙の鳴き声が聞こえた。
紫微城の裏手にある広大な庭院は、皇太后が近年になって造営したのだと聞く。
見たことはないがそこには蓬莱池という大きな池があって、蛙の鳴き声もそこから聞こえてくるのだろうと思った。
この世界に来て三度目の春。
あっという間なようで、けれど沢山のことがありすぎた。
私は鬘を取ると、無作法にも敷布の上に直接寝ころんだ。
春麗や深潭の妻である花琳がいたら許されないだろうが、今は一人なのだからいいだろう。
花酔楼にいる間は、少年だと偽るため短く切りそろえていた髪も、もう随分と伸びた。
肩口まで伸びた髪はこそばゆいが、切るのは我慢だ。
花琳に、もう二度と切ってはいけないと厳命されている。
毛先を指で弄っていたら、ガタリと音がして房の扉が薄く開いた。
何者かと慌てて起きると、ぼんやりと闇の中に見知った顔が浮かび上がる。
「黒曜!?」
驚いて名前を呼んだあと、私は慌てて口を抑えた。
いつものことだが、今日も後宮に皇帝の渡りがあるとは聞いていない。
つまり、彼は正式な手順を踏まずに忍んできたのだ。
その証拠に、服装も皇帝の普段着である袞服ではない。
出会った時と同じ盤扣の盤領で、まとめず垂らしたままの髪はどこか野性的な色香を放つ。
私は思わず委縮してしまった。
まさか黒曜がくるなんて、予想もしていなかったのだ。
だって、最後に彼に会ったのはひと月ほど前。
それも尚紅の今後について。二三言葉を交わしただけに過ぎなかった。
「邪魔をしたか?」
私があまりにも寛いでいたので、どうやら黒曜も驚いたようだ。
彼が私から目を逸らしているのがその証拠で、居たたまれなくてその場に小さくなった。
「だ、大丈夫アル……」
緊張すると、語尾がおかしくなる癖も相変わらずだ。
最近は出ていなかったのに、やっぱり黒曜を前にすると緊張してしまうらしい。
「そうか」
黒曜は房に入ると、後ろ手で扉を締める。
そして倒れ込む勢いで、先ほどまで私の座っていた椅子に腰かけた。
大柄な黒曜の重みと衝撃に、籐編み繊細な椅子が悲鳴を上げる。
「ど、どうしたの!?」
叩き込まれたマナーをかなぐり捨て、慌てて駆け寄る。
そばにあった机に肘を置いた黒曜は、まさしく“ぐったり”という表現そのままに体の力を抜いた。
いつも背筋をまっすぐ伸ばしている姿を見慣れているだけに、彼がここまで脱力しているのは珍しい。
「つ、疲れた……」
黒曜の言葉に、彼が怪我や病気で倒れたわけではないと知る。
安堵のため息をつき、とにかく黒曜をもてなすためお茶の用意を始めた。
と言っても、皇帝に出せるような高級なお茶は支給されていない。
なので、用意するのは私特製疲労回復に利く山白竹茶だ。
山白竹は一年中採れるし、美肌や免疫を高める効果もあって非常に有用な植物だったりする。
味もクセが無くほんのり甘いので、私自身お気に入りのお茶だ。
「不思議な香りだ」
小さな茶器にお茶を注げば、香りをかいだ黒曜の眉間の皺が少しだけほどけた。
茶器を傾ける黒曜を横目に、私は彼と机を挟んで腰掛ける。先ほどまで春麗が座っていた椅子だ。
「甘い……うまい茶だな。どこの産地のものだ?」
「すぐそこ。後宮の中」
「後宮の中? 茶樹園か?」
黒曜が不思議そうな顔をするが、それは私も一緒だ。
広い広いとは思っていたが、まさか城の内部に茶樹園まであるとは思わなかった。
「違う。すぐそこ。この葉っぱ」
そう言って、私は後で化粧水にしようと陰干ししてあった山白竹を手に取った。
黒曜は目を丸くしている。
「なんだそれは! そこら中に生えている雑草じゃないか」
「なっ、雑草違う! おいしいし便利。とても助かる葉っぱアルよ!」
慌てて言い返すと、今度は呆けた顔になる。
そして一拍後、黒曜は破顔した。
「ははは! 雑草の茶を皇帝に飲ませるのは、お前ぐらいだ」
褒められているのか、貶されているのか。
おそらくは後者だろう。
せっかく良かれと思ってお茶を淹れたのに、驚かれるし笑われるしでがっかりだ。
私の仏頂面に気付いたのだろう。しばらくすると黒曜は笑うのをやめ、わざとらしく咳払いをした。
「あー、ゴホン。なんだ、笑って悪かった。せっかくお茶を淹れてくれたのに……」
眉を下げ、こちらをうかがっている姿はとてもこの国で一番偉い人とは思えない。
初めて会った時に比べて、とても表情豊かになったなと思う。
まるで私の機嫌を伺うような態度に、思わず吹き出してしまった。
黒曜との久しぶりの再会に、私も少なからず高揚しているらしい。
私につられて黒曜も笑い声をあげ、場は和やかな空気に包まれた。