29 あなたに届くように
その夜。
邸第の人々が寝静まった後。
私は勇気を出して、余暉の部屋を急襲することにした。
蘇老爺にけしかけられて決心がついた。
もう気まずいだの怖いだのは言ってられない。
せめても余暉にありがとうと言って、早く後宮に戻ろう。
老人との約束は守れないが、そうしなければと思った。
このままではずるずると、いつまでもこの邸第にい続けてしまう。
黒曜とした尚紅を立て直すという約束だって、まだちゃんと守れていないのに、だ。
長い襦裙の裾を踏まないように持ち上げて、裸足のまま足音を忍ばせる。
音がするのを恐れて、鬘も房に置いてきた。
少し伸びた髪が、首に触れて少し痒い。
月は満月に少し欠けた待宵月。
その明るさのお陰で、明かりがなくとも安心して廊下を進むことができた。
普通、主人の部屋は風水の関係で北西に作る。
北にある母屋の西の端。そこが私の目的地だ。
何回かの突撃で、どこが使用人の部屋かは分かっている。
母屋に入ると殊更慎重に進み、そして私はようやく主寝室へと到着した。
心臓がばくばくと高鳴って痛いぐらいだ。
しかし、今日こそはと覚悟を決めてきた。
細かな細工の施された扉に手をかけ、そっと開く。
中は真っ暗だ。
私は息をひそめて、その中に入った。
無事侵入できて、ほっと息を吐く。
しかし後ろ手に扉を締めようとした刹那、キイとほんの僅かな木擦れの音が響いた。
「誰だ」
次の瞬間にはもう、体を拘束されていた。
一体何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
分かるのは、私の首に回った腕が、今に首の骨をへし折ろうとしていることぐらいだ。
「や、やめて余暉」
すかすかと声にならない声で、私はどうにかそう言った。
「小鈴……?」
耳元で訝し気な声がして、きゅっと締められていた首が解放される。
すうはあと慌てて息を吸った。
一瞬の命の危機だったが、本当に一瞬過ぎて何が起きたのかまだよく分からないぐらいだ。
そんな私を気遣うように、余暉が背中を撫でてくれる。
「大丈夫か? その、すまない」
悪いのは忍び込んだ私の方なのに、余暉は申し訳なさそうにそう呟いた。
「凶手かと思った。俺は恨みを買いやすいから」
そう言って、彼が切なく笑う気配がした。
そんなことでどうしようもなく、胸が締め付けられる。
「余暉……」
「それで、何しに来た? 眠れないのか?」
まるで幼い子供に言うように、余暉の声は甘い。
それは彼が私に、幼くして死んだ妹を見ているせいだ。
「お礼を言いに来た」
「お礼?」
「うん。お世話になったから」
「……行くのか」
余暉の言葉は平坦だった。
「いつまでも、お仕事さぼるできないから」
「そうか」
「綺麗な襦裙、着せるくれてありがと。歩揺も冠も、素敵。私には、似合わなかったかもしれないけど」
「そんなことはない。よく似合っていたよ。想像した通りだった」
余暉の声に甘さが戻る。
私ではなく妹に言っているのだと思っても、思わず赤面してしまいそうな声だ。
「ご飯もおいしかった。珍しい物、お腹いっぱい食べた」
言っている内に何となく、自分が本当に余暉の妹であるような錯覚に陥った。
想像することしかできないけれど、きっと明鈴も優しい兄にいっぱいお礼が言いたかったに違いない。
彼女はもうお礼を言うことができないから、その分も言ってあげたいと思った。
「お前には、迷惑だっただろう? 俺は鈴音を明鈴の身代わりにしたんだ」
余暉が私を鈴音と呼ぶのは珍しい。
一瞬驚いてしまって、二の句が継げなかった。
「妹も母も亡くして、もう後付けの人生なのだと思った。親不孝だと思うから、自ら死なずにいただけだ。何も感じず何も思わず、流れ流れてたどり着いたのが北梨だった。あそこには素性の知れない人間が山ほどいて、誰も過去を詮索なんてしない。だから居心地がよかったんだ」
余暉の独白を、私は黙って聞いていた。
「何年も時が過ぎて、翠月なんて名前ほとんど忘れかけていた。お前に出会ったのはそんな時だ。道端に落ちていた、奇妙な格好の子供。一目で似ていると思った。母に―――妹の明鈴に」
そう言われた時、どくどくと脈が速くなった。
余暉の目はどこか遠くを見ている。
目の前の私ではなく、どこか遠いところを。
「じゃあ、女だって気付いて……た?」
ようやく出た声は少しかすれていた。
余暉がゆっくりと頷く。
「出会った時から、男だなんて思わなかったよ。でも女だと言ったら、北梨では妓女になるしかない。だから誤魔化したんだ。お前は言葉も喋れなかったし」
最初から、余暉は勘違いなどしてなかったのだ。
性別を隠し通せていると思っていた自分は何だったのかと、少し恥ずかしくなった。
それでも、少なくとも養母は騙されていたはずだ。
でなければ今頃、花酔楼で客を取らされている。
「前にも言ったが、明鈴のことも小鈴と呼んでいた。同じ鈴の付く名前で驚いたよ。あいつが生きてたら、ちょうどお前ぐらいの齢だ。まるであいつが生き返ったみたいだと思った。お前にしてみたら迷惑な話だよな」
自嘲する余暉を、私はぎゅっと抱きしめた。
その感触から、彼が驚いているのが分かった。
「迷惑なんて、ない! 私嬉しかったアルよ。知らない国、知らない場所で、言葉も話せなくて怖思た。余暉いなかったら、野垂れ死ぬしてたよっ。身代わりでもなんでも、余暉優しいの本物! 迷惑だなんて思うしない!」
(ああ、また言葉が変になってるや)
叫びながら、どこかで他人事のように思った。
春麗の徹底指導で強制されたはずが、気分が高ぶるとすぐに悪い癖が出る。
言葉を覚えた頃傍にいてくれた、余暉と話しているのも原因の一つかもしれない。