28 蘇老爺の願い
その次の日も、やっぱり子美はやってきた。
「命令だから……」
気まずそうにそう呟く彼女は、なぜかもじもじと所在なさげだ。
いつものように竹筒を渡すと、おどおどとそれを受け取る。
「あ、ありがと……」
今までに一度も言われたことのない言葉だ。
彼女の変化に、私は目を剥いた。
「ちょ、そんなに驚くなんて失礼でしょう! あたしだってお礼ぐらいっ」
また怒られた。なので素直に謝っておく。
すると子美はすぐに大人しくなった。
「なんであんたは、そうなのよ」
「え?」
「あたしに何言われても怒らないし、やけに素直だし……鉛白の時はその、すごく怒ったじゃない」
「だってあれは―――」
(命の危険があったからだ)
言いかけた言葉を、私は言っていいものかと悩んだ。
彼女はもう、罪を償っている。
それなら改めて、彼女を責めるようなことを言う必要はない。
黙っていると、耐えかねたように子美はそっぽを向いた。
「昨日のね」
「うん?」
「昨日、頭を掻くの、止めたでしょ。あんた」
「あー」
確かにそんなこともあったと、私は頷いた。
子美は相変わらず、私の顔を見ようとはしなかったが。
「あれね、母さんにも、よく注意されたの。髪が乱れるから、止めなさいって……」
言葉の語尾は、霞んで消えた。
「あんたほんと変よ。他人のことは真剣に怒るくせに、他のことはやけに素直だったりするし。かと思ったら、変なとこで頑固だし」
頑固なのは、否定できない。
今もまだ、後宮に帰れずにいるのだから。
けれどそろそろ本当に、踏ん切りをつけなくては。
花琳が待っているし、春麗にも十分すぎるほど迷惑をかけてしまっている。
それに―――。
脳裏に浮かんだ人の名を、偶然か子美が口にした。
「黒曜ってやつ、心配してたわよ。早く帰ってやんなさい」
そう言うと、もう耐えられないとでも言わんばかりに子美は駆けだした。
いつものことだが、再見の挨拶もない。
なんだか彼女の背中を見送ってばかりいるなと思いつつ、胸にはじんわりと温かい気持ちが溢れた。
***
私が蘇老人に再会したのは、その日の夕刻のことだった。
廊下を歩いていたら、後ろから声を掛けられたのだ。
「いやはや、とんだ勘違いを。申し訳ない」
余暉から説明があったようで、彼は私を明鈴だと勘違いしたことを謝ってくれた。
その腰があまりに低いので、こちらの方が恐縮してしまったぐらいだ。
「あの、お気になさる、しないでください」
花酔楼のお養母さんと同じ年頃の老人だ。
いつまでも頭を下げさせているわけにはいかない。
「おや? あなた言葉が?」
「はい。異国より来ました。鈴音言います」
春麗の特訓でかなり矯正されたとは思うが、まだ言葉は不自然であるらしい。
老爺はまじまじと私を見つめ、そして破顔した。
「いやあ、不思議ですなあ。こんなに奥様に似ていらっしゃいますのに」
客間にお茶を用意してもらい、私は蘇老人と向かい合った。
あまりそんな印象はなかったが、彼は背が高くがりがりに痩せている。
足腰を悪くしているのか、腰掛ける時の仕草は慎重だった。
手を貸そうとすると、心配は無用と片手で制される。
「若い頃怪我をしましてな。今もこの有様です。情けない」
「大変ですね……」
ようやく椅子に座ると、全忠は膝を撫でながら遠い目をした。
「翠月様がなさった苦労を思えば、この程度のこと―――」
彼は悔し気に言葉に詰まる。
老人の嘆く余暉の過去を思い、私は重い気持ちになった。
そんな私の様子に気付いたのか、彼は取り成すように再び笑顔を見せる。
「ああ失敬。過去の話をするために、お呼び止めしたわけではないのです」
「では、一体どんなご用で……?」
その言い回しからして、ただ謝るために呼び止めたわけではないらしい。
この老人が私に何の用だろうかと首をかしげていると、突然彼は深々と頭を下げた。
「お頼みしたいのは、翠月さまのことです!」
「えっ! あの、頭上げるください!」
驚きのあまり、どうしていいかわからなくなる。
「あなたが頼みを聞いてくださいますれば!」
「は!?」
「いいから、“分かった”と仰ってください!」
「え、そんな」
「この通りです!」
彼は卓子に手をつき、もう土下座せんばかりの勢いだ。
目上の人に頼み込まれて断れるはずもなく、私はつい了承してしまった。
「わ、分かりましたから頭上げるください! 分かりましたから!」
必死でなだめると、全忠はどうにか頭を上げてくれた。
初対面の時も含めて、どうやら思い込んだら一直線の性格らしい。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ない。頼みとはそう、翠月様のことなのです」
「余暉の?」
思わず呼び名れた名前で聞き返すと、彼は傷ついたような顔になった。
「鈴音様は、余暉と呼ばれた頃の坊ちゃまをご存じなのですね」
「あ、はい。ずいぶんお世話になって……」
お世話になった場所が北梨であることは、言っていいのかどうか分からなかった。
私は髪結師も立派な仕事だと思うが、お金持ちの中にはそういう職業を差別する人がいることも、もちろん知っている。
「ずっと、手を尽くして坊ちゃんの行方を探させていたのです。まさか王都にいらっしゃるとは思いもせず、名乗り出ていただくまで気づきもせずに―――。今は亡き先代に、坊ちゃんを頼むと託されていたにも関わらずっ」
老人の顔には、深い悔恨の念があった。
彼は思い余って立ち上がろうとし、椅子から転げ落ちそうになった。
慌てて体を支えると、全忠は恐縮したように席に戻った。
「何度も申し訳ない。これも罰なのかもしれませぬ」
「罰?」
「ええ。この膝は族誅を免れた際に、罰として砕かれたものなのです」
あまりにも壮絶な話に、私は言葉を失った。
「私は膝一つで済みましたが、王都を追われた奥方様や坊ちゃん、それにお嬢様はどれほどお辛い思いをされたでしょう。それを思うと、今でも涙が溢れて堪らんのです」
老人の小さな目は、言葉通り涙に濡れていた。
私なんかの安い言葉で慰められるはずもない。
どうすればいいのかと困っていると、初対面の時と同じくぎゅっと手を掴まれた。
まるで命綱のように、彼のしわがれた二本の手が私の手を握り締める。
「どうか、どうか坊ちゃまをお救いください。もう貴女様しかいないのです」
「ど、どういうこと、ですか?」
「貴女様の話をなさる時だけ、坊ちゃまは昔のように微笑まれるのです! ぜひ、これからもお傍で、あの方を支えてくだされ! 哀れな老人の頼みをどうかっ」
思いもよらない言葉に、私は何も言えなくなってしまった。