23 たどり着いた余暉の過去
厩番は驚いて、慌てて馬に駆け寄りどうどうとなだめている。
「覚えておりますかな? 儂は貴女のお爺様の義理の弟で、名を蘇全忠と申します。いやあ実に大きく、美しくなられて」
心なしか、老人の目が潤んでいた。
「目など、お母様にそっくりだ。よくぞ御無事で……」
「ええと、あのう……」
「いいえ。何も言わんでください。過去を思い出したくない貴女の気持ちはよく分かる。さぞ辛い思いをなされたでしょう」
そう言って、彼は私の手をぎゅっと握り締めた。
皺々の手が、かたかたと震えていた。
私は何も言えなくなって、黙ってその老人を見上げていた。
「あの、とにかく落ち着いて」
私がそう言うと、老人はついに耐えかねたというように目元を拭った。
「なんとお優しい―――儂を恨んでおいででしょう。貴女方家族を助けることもできず、おめおめと今日まで生き延びてしまいました。許してくだされ、明鈴様……」
彼は祈るように、私の手を屈めた己の額に押し当てた。
私は心底困ってしまって、助けを求めて周囲を見回す。
しかしそんなときに限って、庭院には人気がなかった。
「お亡くなりになったと聞いていたが、貴女様をこの目で見ることができて、わしゃ嬉しゅうて嬉しゅうて……」
「全忠!」
その時だった。
空を割る稲光のような声が、私たちに突き刺さる。
「余暉……」
声の主は余暉だった。
彼は珍しく慌てた様子で、私たちに駆け寄ってくる。
「おお、これはこれは翠月様。今明鈴様とお話を―――」
(翠月、様?)
「老父。彼女は明鈴ではありません。兎に角こちらへ」
私の疑問をよそに、余暉は手荒に私から老人を引きはがす。
助かったという思いと、一体何が起こっているのだろうという思いが交錯する。
余暉は近くにいた家人に私の世話を任せると、自分は老人を連れて邸第の奥へ入っていってしまった。
私は茫然としたまま、そんな二人の後姿を見送ったのだ。
***
夕食までしばらく休んでいるように言われ、私はここ数日使わせてもらっている房で一人お茶を飲んでいた。
本当はいつもの使用人が付くと言われたのだが、少し考え事があるからと一人にしてもらったのだ。
とりあえずお茶を飲んで一息ついた私は、先ほどの出来事を整理することにした。
(彼は私を、“明鈴”と勘違いしていた)
老人に呼ばれたのは、知らない名前だ。
私の知る限り、使用人の他にこの邸第にいるのは私と余暉の二人だけ。
彼が余暉を尋ねてきたのは間違いないとして、ならば彼の言う明鈴とはいったい誰なのだろう。
疑問に思いながらも、私はうっすらと、その人物に検討がついていた。
私と余暉以外で、この邸第にいてもおかしくないと老人が思った人物。
女性で、老人が見間違える程度には私と年恰好が似ているであろう“明鈴”。
(もしかしてその明鈴こそが、使用人達の言う余暉の本当の妹なんじゃないの?)
一度そう考え始めると、もうそうとしか思えなくなった。
あのとんでも美形の余暉の妹が、私に似ているとは少し考えづらいものの、今のまともな格好を見て老人は私をその明鈴と勘違いしてしまったに違いない。
(話しぶりからして、随分会ってないみたいだったし―――)
そこまで考えたところで、私ははっとした。
「でもあの人、明鈴は死んだって……」
そうだ。あの老人は、死んだと思った明鈴と再会できたと思い、泣いて詫びていた。
彼と明鈴―――余暉の家族の間に何があったかは分からないが、私と同じ年頃の明鈴になにか泣いて詫びなければいけないようなことがかつてあったのだ。
そこまで考えたところで、ふと外の廊下から足音が聞こえた。
「邪魔するぞ」
外から掛けられた声は余暉のものだ。
驚いて慌てて居住まいを正す。
私の姿を見て、余暉はほっと顔を綻ばせた。
「よかった。人払いをしたと聞いたから、嫌になって逃げだしてしまったのかもしれないと……」
そう言う余暉の顔には、隠しきれない影があった。
彼が何に苦しみ、そして悩んでいるのか。私はそれを知りたいと思った。
私では何の力にもなれないけれど、話を聞くことぐらいはできるはずだ。
怒鳴られても、私を解放してくれなくても、彼が私にとって大切な人であることに代わりはない。
この世界に来て、一番最初に助けてくれた人だ。
その彼が何かに苦しんでいるのなら、その苦痛を取り除く手伝いをしたいと思うのは当然だろう。
余暉の後に続いて、使用人が一人部屋に入ってきた。
彼女は心得たように余暉の茶の用意をし、私にもお茶のお代わりをくれた。
その間、私たち二人はまるで間合いを測るように黙り込む。
使用人が去って二人きりになると、いよいよ気まずい沈黙が房の中を満たした。
尋ねたいが、気軽に聞けるようなことではない。
どう切り出そうかと悩んでいると、先に口火を切ったのは余暉の方だった。
「さっきは驚いただろう」
苦笑いをする余暉に、張っていた肩の力が抜けた。
「う、うん。老爺、何か勘違いしてたみたい」
そのままこくりとお茶を口に含むと、ふわりと香しい花の香りが広がった。思わず茶器に目を向ける。このお茶もきっと一級品だ。
「小鈴」
「うん?」
呼びかけに答えて顔を上げると、真っすぐな視線とぶつかった。
「お前には、真実を話すよ。楽しい話じゃないが、聞いてくれるか?」
驚きをぎゅっと噛みしめて、こくりと頷く。
余暉が話したいというのなら、それを聞くのは私にとって当たり前のことだ。