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02 新しい毎日

 紫檀の机は代々受け継がれる年代物だ。

 天子の象徴である五本爪の龍のみならず、まるで執念のように隙間なく細工が施されている。

 黒曜―――十五代皇帝黄龍宝は、その上でさらさらと滑らせていた筆を置いた。

 そして溜息をつき、一拍置いて絶叫する。


「一体、いつになったら終わるんだ!」


 臘日の宴から二か月。

 彼は未だに、事件の後始末に追われていた。


「叫んでも決裁書類はなくなりませんよ」


 側に控えていた宰相の黒深潭が、ひどく怖い顔で言う。

 ちなみに、これは彼の地顔である。


「私だって、もう三日も花琳に会えていないのです。八つ当たりされたくなかったら、黙って手を動かし

てください」


 そしてその顔の割に、彼は幼妻を溺愛する愛妻家としても知られていた。


「俺だって、もうひと月も鈴音に会えていないんだぞ。三日ぐらいでなんだ!」


 後宮に引き留めた化粧師の娘の名を出し、龍宝もそれに対抗する。


「寵妃になっての一言も言えない人が何を偉そうに……」


「なんだと!?」


 二人は疲れていた。

 普段の深潭だったら決して龍宝にこんな口は利かなかったし、龍宝だってもっと冷静だったはずだ。

 元々、彼らは乳兄弟ということで仲がいいが、それでも深潭は臣下という己の分を弁えた上で龍宝に接していた。

 しかし不毛な言い合いをする程度には、彼らは疲れ切っていたのだ。

 なぜか。

 永く(まつりごと)(ほしいまま)にしてきた女怪が、権力の座から降りたのはつい先日のことである。

 当然のように、政局は混乱した。

 豪華な塔や離宮の建設にはストップがかかり、後回しにされていた各地の治水や街道整備が再開された。

 しかも、二人の仕事はそれだけではない。

 通常業務に並行して、人事の刷新も行わなければならないのだ。

 今の宮廷は、碌な働きもせず私腹を肥やす者が多すぎる。

 それらを炙り出し、家格に関わらず適当な人物を据えること。

 それが龍宝の悲願だった。

 そもそも、皇太后を生かしておく理由もそこにある。

 彼女の存在は、佞臣を誘い込むための罠だ。

 事実、皇太后の蟄居している離宮には、暗殺者が引きも切らない。

 彼女の名を使ってうまい汁を吸っていた者達が、自らの名が出ることを恐れて口封じをしようとしているのだ。

 その暗殺者どもを捕まえて、雇い主を吐かせて更迭するのが目下のところ一番の大仕事である。

 それにしても、失脚したらすぐさま暗殺者を送り込んでくるあたり、榮国宮廷の俗物は筋金入りのようである。

 いっそ感心しながら、龍宝は気を取り直し、新たな奏上書に目を通し始めた。



 ***



 後宮で使われる蝋燭は、高級な蜜蝋だ。

 なので煙が少なく、焚くと甘い匂いがする。

 夜。静まり返った尚紅の建物で、私と春麗は向かい合っていた。

 春麗は椅子に座って机に向かい、私その向かいに籐細工の椅子を置いて腰掛けている。


「“げんき、ですか? 私げんきしてます”」


 私が言った言葉を、春麗がさらさらと紙に書き写していく。

 皇太后の侍女をしていただけあって、その字はとても綺麗だ。

 彼女がこくんと頷いたのを合図に、私は次の言葉を続けた。

 そう。私は春麗に、手紙の代筆をお願いしているのだった。

 後宮に暮らす者は、一度入ってしまったらおいそれと外に出ることはできない。

 なので後宮に留まる旨を余暉に知らせるのには、手紙を書くより他にないのだ。

 しかし黒家での特訓で言葉遣いは大分ましになったとはいえ、やはりまだ書きとりは苦手。

 紙も貴重品だし、失敗を恐れた私は自筆を諦め、春麗を頼ることにした。

 長く皇太后の侍女をしていた彼女は、今年から尚紅を立て直す私の補佐をしてくれることになった。

 化粧のこと以外常識もおぼつかない身の上なので、顔見知りの彼女が側にいてくれるのはありがたい。

 なんせ彼女は、黒曜の命令で後宮に潜入していた私を知っている。そのせいで、後宮の主であった皇太后が失脚の憂き目にあったことも。知った上で、私の補佐となることに同意してくれたのだ。

 皇太后の元に潜入した際、彼女に助けられたと報告してあったので、おそらくは黒曜が気を回してくれたのだろう。

 なかなか会えないが、気にかけてくれていると感じるのはこういう時だ。


「“約束を、守れなくてごめん。私自分の意志で、後宮残る決めました。だから心配しないで”」


 春麗の筆の音を聞きながら、私は余暉のことを思い出す。

 優しい人。優しくて美しい、花街の髪結師。

 日本からこの世界にきてすぐに出会い、それから一年の間とてもよくしてもらった。

 彼に出会っていなかったら、私はこの世界で野垂れ死んでいたかもしれない。

 その彼との約束を破るのは大変心苦しいが、私は黒曜と約束してしまったのだ。

 後宮に残って、彼の傍にいると。

 勿論、身分のない私が妃になんてなれるはずもない。

 けれど彼は私に、化粧師としての仕事をくれた。

 今の私には、それだけで十分なのだ。

 手紙を書き終わると、春麗は十分に乾かして折り畳み、懐に仕舞った。

 手紙を宦官に託けるのにはコネがいるらしく、私はその方法も春麗に頼っていた。


「ごめんなさい。夜遅く付き合わせた。とても助かったです」


 部屋を出ようとする春麗を呼び止め、私は礼を述べる。

 夜遅くまで付き合わせてしまって、心底申し訳なく思った。

 しかし今は尚紅も大変な時で、空いている時間といえば夜ぐらいしかなかったのだ。

 春麗は目を丸くした後、くすりと小さく笑った。


「私はあなたを手助けするようにと命じられております。なのでお気遣いなく」


 透き通る声音は鈴のよう。

 本当に、彼女は女官なんてやっているのが勿体ないほど美しい人だ。

 その顔に傷さえなかったら、今頃妃の一人として宮殿の一つも貰っていたに違いない。


(いや、後宮嫌いの黒曜がそれをするかどうかはさて置き)


「あの、その言葉、やめてもらえるですか? もっと気軽、いいのですけど……」


 おずおずと言えば、春麗は呆れたように首を横に振った。


「いいえ。それはなりません。今のわたくしはあなたにお仕えしている身。身分の別はしっかりとしなくては」


 彼女が尚紅に来てから何度も言っているのだが、一向に聞き入れてもらえない。

 以前より仲良くなれたと思っているだけに、言葉遣いで距離を開けられるのは少し寂しかった。


「分かる、ますた……手紙、よろしくおねがいします」


 諦めてそういうと、春麗は優雅に頭を下げて房を出て行った。


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