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18 深潭の事情



 黒深潭は悩んでいた。

 それはおろおろとする幼な妻が、目に入れても痛くないほどに可愛いからではない。そう決して。


「わたくしのせいですわ!」


 そう言ってはさめざめと泣く妻は、座った深潭の膝にかじりついて離れない。

 どうして妻というものは、これほどまでに小さくて愛らしいものかと思う。


(いけない。また思考が逸れてしまった)


 冷血の宰相と渾名される深潭が、ここまで愛妻家であると知る者は少ない。

 家人たちは慣れた様子で、微笑ましそう二人を見ている。


「うっ……鈴音様は市が初めてのご様子で、なので土地勘もなく今頃お困りのはずですっ」


 さめざめというよりはずびずびになってきた涙を、手巾を取り出して拭ってやる。

 その顔はまるで林檎のように真っ赤で、片手に乗せて唇を寄せたくなるほどだ。


「分かっている。夜が明けたら家人たちに探させよう。花琳は休みなさい」


「しかし!」


「慌ててもどうなるものでもない」


 努めて冷静に言うと、妻の肩がびくりと揺れた。

 彼女は知らない。

 深潭がこのしかめっ面の裏で、どれほど妻を溺愛しているかなど。

 というか、気付かないのは本人ぐらいだ―――と深潭は思う。

 花琳はおずおずと膝から離れ、床の上で居住まいを整えた。

 そのさまはまるで、大人しく従順な小型の犬のようである。


「すっかり取り乱してしまって……申し訳ございません」


 ひらひらとした長い裾で、花琳が小さな口元をそっと覆う。

 美しく成長したとはいえ、そうしているさまは幼い頃となんら変わりがない。

 深潭は思わず零れそうになる笑みを、すんでのところで堪えた。

 きっと花琳からはそれがひどい苦渋と映っているはずで、止めようとは思うのだが素直にほほ笑むことができない。

 深潭が気分を害したと思ったのか、花琳は叱られた子犬のようになった。

 どうしていつもこうなってしまうのかと、深潭は泣きたくなる。

 原因は全て、彼の生まれてきた環境にあった。

 深潭は黒家の一人息子である。

 将来は跡取りとして、そして皇帝を支える乳兄弟として、幼い頃より厳しく躾けられた。

 時は幼い皇帝の御宇(みよ)とは名ばかりの、皇太后が権勢をふるった時代である。

 龍宝と近しかった深潭には、何度も命の危機があった。

 毒殺不意打ちは当たり前。

時には女を宛がい、深潭を思うままにしようとする企みもあった。

 犯人は分かっていないにせよ、おそらくは皇太后の息がかった者の仕業だろう。

 命を狙われて、へらへらと笑っていられる者はいない。

 自然深潭は、常に苦渋を噛みしめているかのような人相になってしまった。

 見合い用に画家に描かせた似姿は、人相書きと見紛うばかりである。

 本当に、花琳はよくぞ怖がらないでいてくれるものだ。

 いや恐がってはいるが、それでも恐る恐る近づいてきてくれるところが可愛いのである。

 深潭は、花琳が幼い頃からよく知っている。

 それは彼女が、黒家の分家の子供だからだ。

 花琳と結婚する前、深潭には幾人もの嫁候補がいた。

 名門黒家の主のことである。

 正妻ではなくとも、例えば家妓として娘を娶ってくれないかと、囁く者もあった。

 しかしその内のどれが、皇太后の企みかわからない。

 元来の女好きというわけでもない。

 深潭はそう言った申し入れを、全て丁寧に断り続けた。

 いつしか深潭は若い皇帝と念友であり、女に興味がないのだという噂まで立った。

 若い少年を是非にと勧めてくる輩には辟易したが、そう思われるのは好都合、とすら思っていた。

 そうしてすっかり結婚の機会を逃した深潭が、花琳と再会したのは三十を過ぎてからだ。

 その頃花琳は、ちょうど父を亡くして頼るべき人を失っていた。

 不仲の兄が実家を継いだので、家に居場所がなくなったのである。

 これ幸いと、金持ちの助平親父に身売りされそうになっていたところを、それはあんまりだろうと思い娶った。

 彼女の父には生前世話になっていたので、深潭からすれば妻を娶ったというよりも、可哀想な子供を引き取ったような気持ちだった。

 それがここまでの愛妻家に変貌するとは、彼自身想像していなかったことである。

 何はともあれ、可愛い妻を娶らせてくれた運命の女神に感謝したいところだ。

 同時に、幾人もの妻を娶らなければいけない主、龍宝には同情の念を禁じ得ない。

 だからといって身元の知れない化粧師に懸想してしまったのは予想外だったが―――。

 そこまで考えて、愛妻家の宰相はようやく自分が何を悩んでいたのかを思い出した。

 化粧師の行方不明を、主に知らせるべきか否か。

 愛しい妻を見下ろしながら、深潭は重い重い溜息をついた。



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