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16 手のひらをすり抜けていく


「いい加減、話してくれてもいいんじゃないか?」


 龍宝の声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。

 それもそのはずで、どんなに手を尽くしても華家の新当主は沈黙を守ったままだ。

 各方面から働きかけても梨の礫で、彼の苛立ちは日に日に募っていた。


「下手な時間稼ぎは、身のためにならんぞ?」


 凄む龍宝に、しかし華妃は黙ったままだ。

 閨房とは名ばかりで、二人の間の空気はピンと張り詰めていた。


「そう言われましても、わたくしからはなんとも」


 瑞英はそう言って、団扇で口元を隠すばかり。

 龍宝は大きなため息をつくと、理解できないというように肩を竦めた。


「どうしてそれほどまでに義理立てする? 突然現れて、お前を後宮に入れたような男だぞ?」


 瑞英の身元の調べはついている。

 今でこそ華の姓を名乗ってはいるが、そうなったのはつい最近だ。

 彼女の本当の姓は蘇。蘇瑞英。

 生き残った華家の親族を取りまとめる長老の孫で、入宮に際し華家の新当主の養子となったという。

 素性の定かではない男の養子となり、そして今は皇帝への贈り物として利用されている。

 そこに恨みはないのかと、龍宝はそう言っているのだ。

 しかしそんな龍宝の言葉に、今までのらりくらりと矛先をかわしていた瑞英が、突如として立ち上がった。

 その華奢な肩は、驚いたことに怒りに震えている。


「あの方を、侮辱するのはおやめくださいっ」


 その押し殺した声からは、乱れた感情を慌てて抑えつけている様が見て取れる。

 女の目に浮かんでいるのは、愚かしいまでの忠誠心だ。

 まるで主のために死地に赴く兵士のような―――少なくとも、美しく着飾った妃がするような目ではない。

 その目に、龍宝は頑なな彼女の真の顔を見た気がした。

 二人の間に、沈黙が落ちる。


「……そんなにも、素晴らしい男か?」


 突然の龍宝の問いに、瑞英は目を見張った。


「なにをっ」


「忠義を尽くすほどの価値が、その男にはあると?」


 龍宝の目に、揶揄するような色はない。

 ただただ注がれる真剣な眼差しに、瑞英は言葉をなくした。


「余は何も、華家を責め陥れんとそちを訪っているわけではない」


 蝋燭の明かりに、男の熱心な表情が浮かぶ。


「果たして。黙りこくるばかりが、忠義ではないはずだ」


 そう言い残し、龍宝が房を出て行く。

 瑞英は真意を探るように、黙ってその背中を見送った。


  ***



「小鈴、なのか?」


 馬を降りた余暉は、恐る恐るというように手を伸ばした。

 再会の喜びと同時に、手紙だけで約束を破ってしまった後ろめたさが湧き上がってくる。

 手を伸ばすことも、返事をすることもできず私は立ち尽くした。

 そんな私たちに、子美が胡乱な目を向けている。


「どうして答えない!」


 すると突然、余暉が無理やりに私の手を取った。

 荒げられた語尾に身が竦む。


「あ……」


 見上げると、そこには以前よりも美しさに磨きのかかった余暉が立っていた。

 男衆と同じ格好ですら、女と見間違えられていた彼だ。

 富豪のように着飾れば、その姿は匂い立つように美しかった。

 もし彼が女として生まれていれば、傾国として芙蓉と共にその名を轟かせていたに違いない。


「こんなところで何を……後宮にいたんじゃなかったのか!?」


 手首を余暉の手に、ぎりりと力が籠る。


「い、痛いよ余暉……離して」


「離したら、また俺の前から姿を消す気だろう!」


 激しい言葉に、泣きたくなった。

 あの優しかった余暉が、こんなに怒るなんて。

 彼をそうさせてしまった自分の不義理を、私は悔いた。


「お取込み中のようだから、私はもう行くよ。帰れなくなっても困る」


 そう言って、子美がそそくさとその場を去ろうとする。

 呼び止めても、彼女は振り向きもしなかった。

 追いかけようとすると、余暉の手の力が、また強まった。


「痛っ!」


 思わず叫ぶ。

 はっと気が付いたように力を緩めてくれたが、余暉が手を離してくれることはなかった。

 そうしている間に、子美の背中はもう追いつけないほどに遠くだ。

 観念して、私は目の前の人と向かい合う覚悟をした。


「余暉、離して。逃げないから」


 そう言うと、迷いながらも余暉はその手を離した。


「あ……元気に、していたか?」


 らしくないしおらしい問いに、こくりと頷く。

 顔が見れなくて俯いた。

 私にとって余暉は、黒曜といるために切り捨てようとした過去だ。

 あんなにお世話になっておいて、なんて勝手なのだろうと自分でも思う。

 だから彼の目をまっすぐに見られないのは、その疚しさのせいだった。


「うん。余暉、は? 元気? なんだか随分と、綺麗な恰好だね」


 おずおずと言う。

 緊張で声が上擦った。


「ああ、こっちも色々あって……」


「あんまり綺麗だから、びっくりしちゃったよ」


 ちょっと茶化すように言うと、余暉が黙り込んだ。

 気を悪くさせたかと様子を伺うと、その顔には複雑な笑みがのっていた。


「言葉、上達したんだな……」


 それはため息のような、ほんのかすかな声だった。


「うん。後宮でよく教えてくれる人がいて、春麗って言うんだけどすごくきれいな人で―――」


 余暉の様子がおかしい気がして、沈黙を埋めようと余計に口を動かす。

 なのに、話すほどに彼の表情は険しくなった。


「後宮の話なんてするな!」


「ひゃっ」


 怒鳴りつけられ、思わず後ずさる。

 逃げたいけれど、逃げちゃいけない。

 やはり手紙だけではだめだったのだ。

 余暉は私の不義理を怒っている―――そう、思った。


「ご、ごめん。ちゃんと連絡もしなくて。戻ってくるようにって、言われてたのに」


 しどろもどろに言いながら、あちらこちらに視線を彷徨わせる。

 空の橙はもう、燃えるような赤に染まっていた。

 その色を見てはっとした瞬間、宮城から夜を知らせる鐘の音が鳴り響いた。

 坊の門では役人が、その門扉を閉じている。


「あ!」


 声を出してももう遅い。

 一度閉じてしまった門は、翌朝五更五点の鐘が鳴るまでは開かない決まりだ。


 (これじゃ黒家に帰れない。どうしよう……)


 悩む私と余暉の間に、気まずい沈黙が落ちた。


「とりあえず、うちに来い。ずっとここにいるわけにもいかないだろう」


 見かねたのか、余暉がそう申し出てくれる。

 怒っている彼についていくのは勇気が必要だったけれど、他に選択肢もない。

 覚悟を決めて、私は余暉についていくことにした。


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