15 まさかの再会
「離しなさいよ!」
そう言って、彼女は私の手を振り払い走り出してしまう。
私は慌てて、彼女の後を追った。
「え!? ちょ……鈴音さまぁ!」
花琳の呼び声を背中に聞きながら、どうしても立ち止まれなかった。
なぜか子美の話を聞かなければいけない気がしたのだ。
なぜそう思ったのかは、私にもよくわからない。
***
子美を追って走り回り、彼女が近くの坊に飛び込んだところで、ようやく捕まえることができた。
壁に囲まれた坊の中には、大きな家々が並ぶ。
東市の近くにある坊のほとんどは、官吏や貴族などの住む高級住宅地だ。
坊とは竜原の都の一区画のことで、碁盤の目の四角は一つ一つ壁に囲まれそれぞれが小さな町ぐらいの規模をしている。
用事のない坊に入ったことがないのは当然で、見覚えのない場所に少し焦った。
どうやって帰ろうか―――一瞬そんな焦りがよぎる。
「もっ、逃げないからっ……離しなさいよ!」
子美は息も絶え絶えで、疲れ切っている様子だった。
私の方が少し余裕があるのは、花酔楼で少年としてこき使われていたからかもしれない。
「あ、ごめんなさい」
慌てて手を離すと、子美はその吊り上がった目で私を激しく睨みつけた。
視線で相手を傷つけられるなら、私は今頃間違いなく致命傷のはずだ。
「あん……った、一体なんなのよ!」
子美が怒声を上げる。
まあ怒って当然だろう。
私の発言が原因で、彼女は後宮を追い出されたようなものなのだから。
けれどどうして彼女がそんなことをしたのか、私は気になった。
何となくだが、さっきの男性の言い争いとなにか関係があるような気がした。
子美の息が整うのを待って、彼女に尋ねる。
「あの、頬、大丈夫ですか?」
「はぁ?」
「さっきの……ぶたれていた、から……」
そう言うと、子美は辛そうな顔で黙り込んだ。
なんだか気まずい空気が流れ、私も黙り込んだ。
しかしその頬を放っておくわけには行かないので、何か冷やせるものはないかと周囲を見回す。
近くにちょうどよく水路があったので、そこで手巾を濡らす。
大きなお邸第では人工的に池や川を作ったりするので、多分そのための水路なんだと思う。水は澄んでいて、触れるとひんやりと冷たい。
絞った手巾を差し出すと、子美は更に目を吊り上げた。
「やめてよ!」
怒鳴られたが、ぶたれた場所は赤く腫れあがりつつあった。
早く冷やさないとと焦り、おもわず手巾を押し当てる。
「っ……あんたねえ!」
「怒ってもいい、ですから……当てていてください」
懸命にそう言うと、怒るのに疲れたのか子美は黙り込んだ。
頬を押さえる彼女の手に手巾を押し付け、水路の近くにあった木製の長椅子に誘導する。
坊の出入り口の近くなので、おそらくは開門を待つための公共の椅子だろう。
さすが高級住宅地だけあって、作りもしっかりしている。
もう抵抗する気も失せたのか、子美は大人しく椅子に腰掛けた。
隣に座って彼女が落ち着くのを待っていると、少し冷たい風が吹いた。
空を見れば太陽がかなり傾いている。
春先なので夕刻はまだ震えるほどに寒い。
「一体なんなのよ……あんた」
呆れたと言わんばかりに、子美が小声でつぶやいた。
「あの、さっきの……」
尋ねようとして言葉を濁すと、彼女は辛そうに眉を顰め大きなため息をついた。
「あれは父よ」
「お父さん……」
なんとなく予想はついていたが、彼女の口から聞くと余計に気が滅入った。
彼女の父は、子美が後宮を追い出されたことを嘆いていた。
理由は彼女が規則を侵したから当然だとはいえ、それを指摘したのが自分だと思うとなんとも言えない気持ちになる。
もう一度沈黙が落ちて、次に口を開いたのは子美の方だった。
「うちは代々お白粉問屋をして……でも突然の鉛白禁止で、身代が傾いていたの。良かれと思ってしたことだったけど、やっぱり悪いことなんてするもんじゃないわね」
子美の話し方は、後宮にいた時より気軽なものになっていた。
それが彼女本来の話し方なのだろう。
後宮で分厚い化粧を顔に塗りこめていた時よりも、今の彼女の方が自然に見えた。
「悪いことだって、知って……?」
思わず問いかけると、子美は歪んだ笑いを見せた。
嘲るような、だけど辛そうな、そんな複雑な表情だ。
「そりゃあね。小さい頃から、お客さんをたくさん見てきたもの。中には変な病気になる人もいたわ。鉛白を身近に扱ってたからでしょうね……私の母もそう。当時はまさか、その原因が商品にあるなんて、思いもしなかったけど」
「っ……だったらなんで!?」
思わず言い返すと、彼女はきっと私を睨みつけた。
「だからこそよ! 母さんが、命を懸けて守った店なのよ!? そう簡単に潰せるわけないじゃない!?」
彼女の目から、滂沱の涙が溢れ出した。
私は言葉をなくし、黙り込んだ。
彼女のしたことは、正しくない。それは間違いない。
でもそれも、理由があってのことだった。
だから許されるということでもないが、他人の私が容易く非難できることでもない気がした。
誰もが、自分の事情を抱えて生きている。
それは日本も、榮も一緒なのだ。
手巾は既に頬を冷やすのに使っていたので、私はひらひらとした袷の裾で彼女の涙を拭った。
子美は嫌そうにしていたが、もう逃げることに疲れたのか私の手を拒絶しようとはしなかった。
太陽がみるみると傾き、西の空が橙に染まっていく。
夜になると坊間での移動は禁止されているので、夜を知らせる鐘の前にせめても黒邸のある坊に入っておきたい。
どうしようかと考えていると、近くにあった門から人を乗せた馬が入ってきた。
都の中で馬に乗れるのは、いい家柄の男性だけだ。
手入れが行き届いているのか、青鹿毛の馬は美しかった。
走ってきたのか、後ろ脚の内股のあたりが白く泡立っている。
馬の汗が泡立つというのは、花酔楼の厩の手伝いをしていて学んだことだ。
さすが高級住宅地だと思って何気なく見ていると、馬上の人に突然声を掛けられた。
「小鈴、か?」
花酔楼で呼ばれていたあだ名で呼ばれ、驚いて顔を上げる。
長かった髪を結い上げている姿は見覚えのないものだが、その麗しい顔だけは見間違えようもなかった。
「余暉……?」
馬に乗った彼は、驚いたように私を見下ろしていた。