14 市場で
翌朝。
目覚めると、久しぶりに心がすっきりと晴れていた。
ここしばらく、華妃のことで眠れていなかったのが嘘のようだ。
広い寝台の隣には、安らかな寝顔の花琳がのっている。
昨夜はそうして、眠りにつくまで色々な話をした。
たとえば花琳と深潭の出会いや、私が花酔楼で出会った人たちの話だ。
家人たちの耳を気にしながら、私達はまるで修学旅行の中学生のようにはしゃぎあった。
杉田のように親しい友人がいないこの世界で、花琳は初めての友達かもしれない。
深潭の奥さんが花琳でよかったと、私は心から思った。
ちなみに昨夜、結局深潭は仕事から戻らなかった。
なんでも、最近は月の半分は家に戻らないそうだ。
以前黒曜が言っていた、まともな官吏がいないというのがその理由だろうか。
黒曜にハンドマッサージをした日のことが、ひどく遠くに感じられる。
「鈴音様! 今日は市に参りましょう」
朝食を終えると、薄化粧にすっかり笑顔を取り戻した花琳がそう言った。
「市?」
「ええ、東市ですわ」
竜原の都には二つの市がある。
東市と西市だ。
この二つは政府が決めた市で、これ以外で勝手に市を開くと処罰されてしまう。
西市は金市とも呼ばれる国際色豊かな庶民の市で、東市は上流階級御用達の格式高い市だ。
(懐かしいな)
花酔楼がある平康坊は、東市のすぐ隣にあった。
余暉が買い出しに出かけては、よくお土産をくれたのも東市だ。
私自身はお金というものと縁がなかったので、市に出かけたことは一度もない。
(もしかしたら、余暉に会えるかも)
心の中に、そんな邪な期待があったことは否定しない。
とにかくそんなこんなで、私たちは連れだって東市へと向かった。
***
黒邸から東市までは、歩いてすぐの距離だった。
市に近い家ほど格式が高いと聞いたことがあるので、やはり黒家はよほどの名門らしい。
そして歩いてすぐの距離にもかかわらず、私たちは二人乗りの牛車に乗った。
実物を見たことはないけれど、平安時代の牛車よりは多分小さい。
二つの大きな車輪を持つ牛車は、片側に二つずつ全部で四つの窓がある。
スペース的に三、四人は乗れそうだけれど、引っ張るのは牛一頭なのでそれ以上乗ると牛さんが大変そうだ。
のんびりと歩く牛の横を、牛飼いがぴったりついて歩く。
これなら降りた方が早いと、何度も言いかけては飲み込んだ。
自分の足でせかせかと歩くのは、庶民のやることなのだろう。
生粋のお嬢様の花琳が一緒なのに、まさか私の勝手でそんなことさせるわけにはいかない。
ようやく市に着くと、太陽は中天にまで昇っていた。
なんだか歩くより疲れたような気がする。
どんなに礼儀作法を学ぼうが、やっぱり私は根っからの庶民らしい。
女の二人歩きは危険だからと、護衛には黒家の食客が二人。片方は槍を、片方は剣を携えている。
勿論以前に見た儀式用のなまくらではない。真剣だ。
よろしくお願いしますと頭を下げると、彼らは少し困った顔をした。
頭を下げられることに、慣れていないのかもしれない。
初めて見た市は、驚きの連続だった。
さすが上流階級向けというだけあって、並んでいる商品は全て質のいい高級品だ。
新鮮な異国のフルーツから、高価な茶葉に繊細な玉の細工物に至るまで。
見たことのないものがいっぱいで、驚いてしまう。
そんな私を、花琳は喜々として連れまわった。
多分、昨日弱音を吐いた私を、慰めてくれようとしているのだろう。
その心遣いだけで十分、心が温められる。
沢山の店を見て回っていると、美容品を多く扱っている通りに行きついた。
軒を並べる商店には、小さな壜に詰められた化粧水や、高価と名高い燕州の紅。中には白粉を溶くための、雪解け水なんてのもある。
白粉を溶くには厳冬の雪解け水がいいと耳にしたことはあるが、まさか商品として売っているとは思わなかった。
日本風に言うなら、わざわざミネラルウォーターでのお米を炊くようなものだろうか。
それならば納得できないこともない。
聞き覚えのある声が耳に入ってきたのは、その時だ。
花琳と並んで螺鈿細工の化粧道具入れに見入っていると、二軒隣の店から言い争うような声が聞こえてきた。
「まったく、なんてことをしてくれたんだっ」
そんな……私は家のために良かれと思って!」
「お前まで後宮を追い出されたとなれば、もう我が家はお終いだ!」
後宮という単語に、思わず顔を上げる。
どうしたことかと盗み見ると、壮年の男性と若い女が店先で言い争っていた。
(え? あれって……)
驚いたことに、その若い女の方に見覚えがあった。
「まさか……」
「え? 鈴音様?」
ふらふらと吸い寄せられる私に、花琳が驚いたように声を掛ける。
しかし、足を止めることはできなかった。
まるで何かにとりつかれたように、その女に近づく。
その時だ。
男が娘の頬を叩いた。
バチンと響いた音に、体が竦む。
思わず、私はその娘の腕をつかんでいた。
「ちょっ、なによ!」
頬を押さえた娘が、怒鳴りながら振り向く。
化粧っ気のない顔は、まるで別人のようだった。
その目にはうっすらと涙が浮いている。
見間違えるはずもない。
「あんたは……っ」
店先で言い争っていた女は、先日後宮を追われたばかりの子美だった。