13 女達の憂鬱
そういうわけで早速、家人には紙と筆を用意してもらった。
尚紅にもテキストが必要だと思っていたところだったので、これはちょうどいい機会だ。
どのように書いていけば分かりやすく、読んだ人間が実践しやすいか。
何度も花琳と話し合い、下書きを重ねる。
榮の言葉は喋るよりも、文字の方がより複雑だ。
かつて学校で習った漢文のようなもので、中には置き字のように読まない文字もある。
また、華酔楼での経験からすると、識字率もそれほど高い国ではないと思う。
だからできるだけ簡単に、たとえば文字の読めない人でも分かってもらえるよう、図解があるといいという話になった。
若いながらに花琳は多才で、驚いたことに書画の両方に通じていた。
たまに忘れそうになるが、彼女は正真正銘のお嬢様なのだ。
といっても得意なのは山水画で、単純な線のみの図解は勝手が違うらしい。
しばらくうんうんと唸っていたが、練習する内に簡素な線のみの絵もかなり上達していった。
「すごい花琳! これなら分かりやすいです!」
「そ、そうでしょうか?」
花琳の顔が紅潮する。
いいものができそうで、私も嬉しくなった。
鬼気迫る勢いで、花琳が文字を認める。
書くことは手伝えない私は、せめてもと墨をすった。
便利な墨汁なんてものはないので、水を入れてひたすら硯に向かう。
榮の国では文具は四宝と呼ばれるほど大事なもので、柔らかい手触りの硯にもきめ細やかな花の彫刻が成されていた。
力を入れすぎて壊してしまわないように、恐る恐るの作業だ。
そうして丸一日かけて、ついに花琳用の特製化粧法指南書ができあがった。
全てが終わる頃には、とっぷり日が暮れてしまっていた。
疲れ果て、二人とも床に転がる。
今日は流石に、花琳も無作法だとは言わなかった。
差し込む月明かりに、浮かび上がる花琳の顔には所々墨がついている。
木蓮を象った花窓の向こうには、白い弦月が浮かんでいる。
「花琳様、顔に墨がついてる」
思わず笑うと、花琳も柔らかい笑顔になった。
「鈴音様も、真っ黒ですわ」
くすくすと、私たちはしばらく横になって、互いの顔を笑いあっていた。
「花琳様」
「はい?」
その、打ち解けた空気のせいだろうか。
思わず、言うつもりではなかったことが口から零れ落ちていた。
「私ずっと、苦しかったです」
「まあ」
体を起こした花琳が心配そうにのぞき込んできた。
「やはり、後宮は合わないですか?」
「どうなんでしょう。仕事はやりがいがあります。辛い時もありますけど、それはどんな仕事でも同じ、です」
恐らく働いたことのない若奥様は、私の話を懸命に理解しようと眉を寄せている。
年下の女の子に何を話しているのだろうと思いながら、私はここしばらく胸につかえていた塊を取り出した。
「でも、黒曜が……」
「まあ、皇帝陛下が?」
花琳は、皇帝を黒曜と言って通じる数少ない人だ。
私は思わず、右腕で両目を隠した。
弱音を吐く顔までは、見られたくない。
「平気だと思ったのに、黒曜にお妃様ができても。なのに苦しい。黒曜が自分以外の誰かに優しくしてると思うと……」
思わず声が震えた。
ずっと、誰に言えなかったことだ。
春麗にさえ、言えなかった。
おこがましいと言われるのが怖かった。
後宮に華妃が来て、黒曜が彼女の元に通うようになって。
仕方のないことだと自分に言い聞かせながら、それでも胸の痛みはどうしようもなかった。
私なんて、正式な妻になれるはずがない。
ただ化粧が得意なだけの、この世界では身寄りもない小娘だ。
だから後宮に残ると決めた時、いつかこうなることも覚悟していた。
いや正しくは、覚悟したつもりだったというべきか。
けれど実際にそうなってみると、ちっとも平気じゃなかった。
仕事にだけは影響がないようにしようと尚紅の立て直しに打ち込んだけれど、夜はいつも黒曜を待ってしまった。
そうして眠れないまま夜が明けて、毎日がその繰り返し。
待ってしまう自分が惨めで、でもだからといって眠ることもできなくて。
ずっと苦しかった。
口に出して初めて、この話を誰かに聞いてもらいたがっていた自分に気が付く。
「鈴音様」
自分で覆っていた視界が、ふとぬくもりで包まれた。
髪を撫でる指の感触。
一拍後に、花琳が私の頭を抱きしめているのだと気付く。
「さぞ、お辛かったでしょう……」
花琳の声音には、まるで自分も傷ついているかのような心細さがあった。
「頼りなく思えるでしょうけれど、わたくしも夫がある身。鈴音様のお気持ちは痛いほどわかります」
「花琳様……」
「深潭様はお優しいですけれど、それでも黒家の当主。もし私にお世継ぎができなければ、家妓をお迎えになるでしょう。悲しいことですが、妻はそれを堪えねばなりません」
家妓というのは、その家専属の妓女。
つまりは妾姫だ。
花琳を溺愛している深潭がそんなことをするとは思えなかったが、実際に無理だとなったら彼はその決断をするのかもしれなかった。
榮の国は日本と同じように血のつながりを大事にする。
古い家柄ともなればそれは尚更だ。
そして子供を産むというのは、時に愛だけではどうにもならないこともある。
天然でおっとりしていると思っていた花琳の告白に、私は思わず息を詰めていた。
年が離れているとはいえ、夫に熱烈に恋している花琳のことだ。
もしそうなったらと想像するだけで、きっと堪えがたい苦しみであるに違いない。
「それでも、私は幸せです。旦那様の元に嫁ぐことができたのですから」
花琳の気丈な声がする。
「大切なのは、既にある幸せを大事にすることですわ。失ったもの。これから失うものにばかり心を奪われてはいけません」
不意に花琳の顔が見たくなって、私は目の上に置いていた腕をどけた。
するとすぐ目の前には花琳のささやかな胸があって、ちょっとびっくりした。
ちらりと視線を上にあげれば、薄闇に花琳の力強い笑みが浮かんでいる。
彼女はすっぴんの上顔の所々に墨がついていたけれど、今までに見た彼女の中で一番綺麗な表情だと思った。
私も弱音を吐くばかりでなく、彼女のように強くなりたい。
離れていく気持ちを悲しいと思うではなく、一緒に過ごした時間を慈しみたい。
「……ありがとうございます。花琳様」
ほんの小さな声でつぶやくと、彼女は私の顔を見て、嫣然と笑った