吾輩はぬこである。
吾輩はぬこである!名前をください。あとエサもください。というか、誰か拾ってください。
どこで生まれたかとんと見当もつかぬ!でも今は、ダンボールの中である……。
とある繁華街の路地裏に、一匹の猫が入れられたダンボール箱が置かれている。中の猫は、茶色い虎縞の体毛を持った小型の大きさで、通り過ぎる人々にひたすら猫目でガンを飛ばし続けている。
「にゃ〜」
猫は思う。なぜこんなにもキュートな吾輩が愛くるしい視線を向けているのに、誰も振り返らないのかと。
通行人は迷う。害獣がいるが保健所に連絡すべきだろうかと。
「にゃ〜」
猫は鳴いてみた。誰も振り返らない。本日で通算五十八回目の出来事であった。
痺れを切らした猫は、自らの足で立ち上がることを決意した。そうだ、待っていてばかりではチャンスは訪れない。運命とは、飼い主とは自らの手で掴み取るものなのだと。
そうして、二足歩行になった猫の行動は早かった。
その猫は飼い主を探すためにまずビラ配りを始めた。紙は拾った。拾ったペンで自分の似顔絵に「飼い主を探しています」の一言を添えて、自販機の下で地道に集めたお金を持って印刷所へ。自分の入っていたダンボール箱いっぱいのビラを抱えて、大通りへ出てビラを配る。
「にゃ〜」
猫は考える。何故こんなにも愛くるしい吾輩のイラストが描かれたこの芸術的なビラを、人間は受け取らないのかと。
通行人は思う。汚ねぇ落書きに読めねぇ字だなと。
ビラ配りがうまくいかなかった猫は、次に旅立ちを決意した。そうだ、この街の住人にはきっと冷徹な人間しかいないに違いない。だから吾輩に三食と昼寝を与えてくれる人物は、きっとこの街の外にいる筈だ。
その頃、通行人の一人が保健所に電話をかけていた。
「すみません。あの、猫を引き取ってもらいたくて。……ええ、その虎猫です。ご存知なんですか?じゃあさっさと捕まえに来てください。すごく迷惑してるんです」
動き出そうとする保健所。そんなことは露とも知らず、猫は旅立ちの準備に取り掛かっていた。
ダンボールで作成した愛用のカバンには爪みがきと護身用のナイフ。それに数枚のビラを詰め込んで準備は万端。猫が旅立ちの最初の一歩を踏み出そうとした、丁度その時だった。
「いたぞ!」
猫は知っていた。奴らは悪魔だと。ぬこという世界で最も愛くるしい小動物ですら容赦なく狩るハンター共。奴らにはおぬこ様と呼ばれる程の生物の価値がわからぬのだ。時にきまぐれで、時に獰猛。かかる仕草は一々が愛らしく、一目見た者は誰もが魅了の魔法にかけられてしまう。それが人を惑わすと危険視されたのか、奴らは執拗に猫を追ってくる。きっとあいつらはぬこに嫉妬しているのだろう、そう猫は考えている。
そして猫は駆け出した。
どのくらい走り続けただろうか。一刻も早く猫はこの街から去らねばならなくなった。猫を捕らんと町中にサイレンの音が鳴り響く。
「そこの猫、速度違反です。止まりなさい!」
とうとうパトカーまでもが出動してきた。いよいよ路地裏まで追い詰められた猫は、目前のビルに向かって大きくジャンプする。
「にゃ〜」
ビルの上から見る街の景色は、ひどく愉快なものであった。人間が、自販機が、パトカーがとても小さく見えた。猫は安堵した。もうこれで誰にも捕まることはないであろう。なぜならば、人間とはあれほどにちっぽけな生き物であるのだから。このような高みからそれを見下ろすおぬこ様こそが至高の生物、もう人に飼われる必要などなくなったのだ。
そして、猫は近くに置いてあった猫缶をもさもさと頬張った。ほら、こんなところにも丁度吾輩の為に誂えたかのようなエサが置いてある。
そんな猫の姿を見ながら、遥か上空を飛ぶ鳥は嗤っていた。