花が咲かないから
人間が必ずイレギュラーを生み出すのは自然の法則なのだろう、と私は思う。
イレギュラーにも様々な姿がある。革新的発明をする者、安定した生活に異を唱える者、自らの教義のために力を振るう者、時には独裁者が現れたりと、挙げればキリがない。
そういう者たちは、時に善人と呼ばれ、時に悪人と呼ばれる。だが、それは世間が後からその者を評したものであり、私はその前に、一つの共通した性質が彼らにあると主張したい。
それは、『近づいてくるあらゆる存在から懸命に離れようとする』というものだ。
「それで、ボクはそういうひねくれ者の一人だってことかな?」
「こら、勝手に覗くな」
私は手帳を覗こうと懐に強引に入り込んできた幼い少女をたしなめた。
「でもさ……」
軽く頭をはたいておこうかと振り上げていた手が宙で止まった。
「そういう人たちだって、きっと誰かと一緒じゃないと耐えられないとは思わない?」
その歳の女の子らしい無邪気な顔が私に向けられていた。
「お前はそうなのか? アベリア」
「ボクはハーブに質問してるの」
私は振り上げた手をアベリアの頭にそっとのせた。
「私は……お前と一緒がいい」
アベリアは、私の言葉に満面の笑みで応えた。
「ほら、みんな同じなんだよ。ボクとハーブだってね」
日が傾き、手元が暗くなってもう何も書けそうになかった。ペンライトを出すのも面倒だったので、私はやれやれと手帳を閉じて、それから立ち上がった。
私たちが立っているこの瓦礫の山は、ほんの数時間前まで、小さな、しかしそれなりの数の人が住む村だった。
村人たちは、何かを恐れるように互いを殺しあった。近づくなと、やめろと、助けてと叫び、あらゆるものを破壊し、永遠の沈黙を得ていった。
この下にも、周囲にも、無機的な油の匂いに混じって、まだ温かみが少し残る死の気配が漂っている。
「どう……して…………」
見下ろすと、瓦礫の山の麓とでも言おうか、そこに一人、確かに生きている者がいた。一つの死体を強く抱きしめ泣いている、汚れた華奢な少年だった。
いつも最後に一人が生き残る。私たちはその者を天へ送り届ける。じきに襲い来る悲しさや苦しさ、寂しさから解放するために。
スクールに通っていた頃の日常というものが、私には退屈で、それでも心地よかった。
変わらない毎日。誰かが何か話題を持ってきて、誰かがそれを笑いに変えたり、時には冗談のようなケンカを起こしたりする。
変わらないことはいいことでも悪いことでもなく、普通のことなのだ。私はそう思うことで、退屈であることに諦めをつけていた。
みんながありもしない幻に恐怖し、狂っていった。
圧倒的な恐怖の前に、私は目を閉じることさえ叶わず、みんなが形あるものすべてを壊そうとする凄惨な光景を記憶に焼き付けられた。体がたまらなく熱かった。
みんな私が見えないままで、でも私には見えない何かを見ていた。何もかもを壊してゆき、時間とともにひとり、またひとりと動かなくなっていった。そしてとうとう、私と一人の男の子を残して誰も動かなくなった。
彼の顔からは人間の表情が消え失せてしまっていた。周囲の無残な死骸、濃密な死の気配よりも、私は彼の人ならぬ姿をおぞましく思った。
何もできなかった自分に吐き気がした。自分が吐くのを止められなかった。
「ボクはハーブが滑稽でしかたがないね」
そこへ少女の声が響いた。
なぜ私の名前を知っているのかという疑問さえ追い越して、私は反射的に声の方へ手を伸ばしてなにかを捕らえた。視線がそれに追いついた時、私の手は見知らぬ幼い少女の首を掴んでいた。
「力が入っていないね」
だが、少女は私の手をひと突きであっさりとほどいた。
「そんなんじゃ、そこの男の子を楽にしてあげられないよ?」
少女は首元を軽くさすりながら言った。喋る代わりに動くことしかできなかった私は、少女につられて彼の方に目を向けた。彼の目はひどくゆっくりと、でも確実に光を取り戻しつつあった。
私は彼の目を見つめ続けた。まもなく訪れることがわかっている時間がもう恐ろしいのに、なぜかどうしても目を逸らすことができなかった。
そして、彼は現実を認識した瞬間、天を仰ぎ、その華奢な体のすべてを震わせ、声にならない叫びを上げた。
それに呼応するかのように、私の記憶に焼き付いたばかりの惨劇が頭に流れ込んできて、私はまた激しく吐いた。溢れ出る涙が火傷しそうに熱く感じた。涙は口まで流れてきて吐いたものと混ざり、途方もなく気持ち悪かった。
「つらいでしょう? でもね、ハーブはまだそんなものじゃ足りないよ」
少女が私と彼との間に来て、腰を折って私の顔をのぞきこむ。口の中に張り付くような嫌悪をそのままに、私は少女を睨んだ。
「ハーブのせいだしね、みんながこうなっちゃったのも」
「何が私のせいだ!!」
激高がようやく私に言葉を吐き出させた。けれど――――
「みんなハーブのせいで恐ろしい幻を見ていたのに?」
突拍子もないことを告げられて、私の頭は瞬間、あらゆる信号を停止した。
「すごいね、自覚がなかったんだ。ハーブだけがみんなから取り残されてたのに」
少女は愉快そうに笑った。それが意味するものとは裏腹に、無邪気に。
少女は立ち上がってくるりと踊るようにして回る。再び彼が視界に入るはずだったのに、彼はそこにはいなかった。
「……彼はどこ?」
「あれ? すごいね、いつの間にかいなくなっちゃった」
何を返すよりも早く、私は少女の胸倉をガッと掴んで吊り上げていた。私は生まれて初めて本当の殺意を抱いていた。
「それをもう少し早くできていれば、彼を解放してあげられたのにね」
少女はまた笑っていた。
「でも、次からはもう逃げられないよ? ハーブがやらなくても、ボクがやるから」
少女がその刹那に放った鋭い意志の刃に、私の生まれたての殺意はいとも簡単に刺し貫かれた。少女の言葉には、今の私にはない、現実を見据え闘う意志が宿っていた。
「よいしょっ!」
少女はまた私の手をたやすく振りほどいた。私の手には意志が通っていなかった。
「そんな全部終わっちゃったような顔しないでよ」
私はその場に力なく座り込んでしまった。その隣に少女はやってきて、しゃがんで私の顔を覗きこんだ。
「ハーブは『生きたい』んでしょ?」
少女は私の頭をゆっくりとなでた。私は誰の手なのかも考えなかった。
確かに抱いたはずの意志は、まるで初めから存在していなかったかのように、他を求める感情に取って代わられていた。
自分自身が貫かれたから、あの強く鋭い刃が自分にもほしくなった。
「ハーブが生きたいと望むなら、それを叶えられるのはボクだけだよ」
違う。生きたいんじゃない。
そうだ。私はただ死にたくないんだ。
「さあ、行こう! ボクがハーブを生かしてあげる」
少女が小さな手を差し出していた。そのときになって初めて、私は少女の手の小ささに気づいた。
「お前の名前は?」
「ボクの名前?」
少女は私から視線をそらすと、花壇を見やりながら心底どうでもよさそうに告げた。
「ボクは一度、名前を捨てたんだ。そうだね……ちょうどそこに咲いているし、アベリアとでも呼んでよ」
「アベリア…………」
それは、花壇にずっと植わっていたのに名前も知らなかった花だった。
「ボクは『感覚異常』なんだ」
アベリアは旅を始めた頃、焚き火の前でそう打ち明けてくれた。月明かりが明るい、廃村での夜のことだった。
「人の思考や感情が感じられるんだ。目に見えるのとも音で聞こえるのとも違うんだけど、感じるんだよ」
例えば、とアベリアは私に向きなおった。
「ハーブはボクの話を信じようとしながら、『後ろの廃屋から何か出てくるんじゃないか』とも考えてるね。怖がりさんだなぁ」
おそらく私がアベリアのことをまだほんの少し信じられていなかったことはわざと言わなかったのだろう。少しいたずらっぽい雰囲気は、むしろ私にアベリアの『感覚異常』を完全に信じさせた。
「そんなの自分でも意識しないと分からないぞ」
「だから『異常』なんだよ。まあボクが勝手に名付けたんだけどね」
名前に自信があるのか少し得意げになっているアベリアを見て、私は思わず微笑んでしまった。こういうところは子供らしい。
「じゃあ、私の『異常』にもアベリアが名前を付けてくれないか」
「ボクが?」
アベリアがかなり驚いたので少し不安になった私を見て、アベリアは付け加えた。
「えっと、こんなに早くボクを信用してくれるもんだから……」
「私はいいと思ってる。アベリアは私を助けてくれるんだろ?」
また少し間が空いた。
「ふふっ、それは騙されやすいって言ってるようなものだよ? 分かってる?」
照れ隠しなのか目を逸らされてしまった。
「まあ、ボクはハーブを信用してないけどね」
アベリアは冗談を飛ばすと、こちらに背を向けて寝転んでしまった。
「まったく……」
かわいげのなさに苦笑いしながら、私も焚き火をはさんで寝転ぼうとした。
「『波長異常』と呼ぶことにしよう」
私は振り返ったが、アベリアは向こうを向いたままだった。
「いいね、さすがアベリア」
アベリアは何も言わなかった。
私はまた苦笑いしながら言った。
「おやすみ」
「おやすみなさい、ハーブ」
おやすみなさいは言ってくれるんだな、と思いながら、私はポケットから手帳とペンを取り出した。
それは私がスクールに通っていた頃からいつも携帯していたものだった。カバーの角が丸くなり、前面に大きく切れ込みが入ってしまっている。
手帳のページはすでに半分埋まっている。私は新しいページを開いて、拳で折り目をつけた。
私はそこに「『波長異常』命名者:アベリア」と書いた。
手帳を閉じると、アベリアが寝息を立てていた。私は少し微笑んで、眠りについた。
私たちは東へと進み続けた。東国は未開の地が広がっており、人があまりいないので、自然に私たちの目的地は東国となっていた。
「なあ、お前はどうして私と一緒にいても平気なんだ?」
「そりゃあ、ボクに効かないからに決まってるでしょ」
「少しは恐怖を煽られてくれたらかわいいのに……」
「すごいねハーブ。もうそんな冗談言えるようになったんだ」
「ほら、やっぱりお前はかわいくないなぁ!」
アベリアは『波長異常』が特定の感情の波長を増幅または減退させるものであると解明してくれた。私の場合は特に『恐怖』を増幅し、それによって人は幻を見るのだという。
「ええ~っ! そんなこと言うんだったらボクはハーブとさよならしちゃうよ?」
その言葉は周りの音をすべて消し去って頭の中に響いた。死が私の目の前を覆い尽くそうとするように感じた。
次の瞬間には、アベリアは私の固く抱きしめた腕の中だった。
「冗談でも……やめてくれ……」
しばらく動きが止まっていたアベリアは私の背中をトントンと優しく叩いてくれた。
「ハーブはもっと冗談に慣れないとね」
「こんな怖さに慣れるわけないだろ……」
「大丈夫だよハーブ。ボクはずっと一緒だからね」
私はアベリアに根をおろし、しがみついている。ただ死にたくないから。アベリアが差し伸べてくれた手を離したくないから。
「あとね、ハーブ」
アベリアは背中に当てた手に力を込めた。
「痛い……」
あっ、と思った私だったが、抱きしめる力を緩めてもアベリアを離さなかった。
私たちは近くに人の気配を感じると必死で逃れた。追っ手があるのは明白だった。だが、たとえ私たちを始末しようとしているのだとしても、私は誰にも死んでほしくなかった。
もちろん人通りのない道を選んで進んだ。エンジン音が聞こえればすぐに道から外れて横に広がる森や岩陰に向かって走った。私たちに向けられるどんな視線も見逃さないように周りに気を配った。やむをえず大街道を横切る時でも、日中は避けて深夜になるまで身を潜めたりもした。それでもやはり、この国で人を避け続けるには限界があると思われた。
「東国に入ればこの国よりは安全なんだけど……」
アベリアは打ち棄てられていたバイクを修理しながら呟いた。
国境には高い壁が連なっており、東へ渡るには必ず関を通らなければならなかった。それに伴って、関へ続く街道沿いの町を通過することになっていたが、もちろん私たちは正規の手続きを踏むつもりはなかった。
「『波長異常』にはまだまだ分からないところも多い。もしかしたら何事もなく通過できるかもしれない。でも……」
もしそうではなかったら。アベリアがそう言いたいのは察していた。だから私は言った。
「私はもう人をあんなふうに狂わせたりしたくない。あんな思いはもうしたくない。それでも、あの町を通る必要があるなら、私は今度こそ自分の意志でその道を選ぶよ」
バイクの修理を終え、アベリアは軍手を脱いだ。
「そっか……」
アベリアは真剣な表情で私の手をとった。そして、自分の腰に手を当てたかと思うと、両刃のナイフと鞘をベルトから抜いて私の手のひらに置いた。
「何だ?」
「あげるよ」
まだわけがわからない私に、アベリアは続けた。
「ハーブに手を出させないっていうボクの誓いのためだよ」
アベリアはナイフの上に手を置き、私の目をまっすぐに見て言った。
「何が起こっても、ボクが道をつくるよ。大丈夫、信じて」
その目を見つめ返し、私は小さく頷いた。
出会った時から信じていたけれど、こんなに小さなアベリアの手に、私がこんなにも信頼をおけるようになっていることが驚きだった。
私はナイフの柄を握り、腰のベルトにさした。
「さあ、行こう。ボクがハーブを進ませてあげる」
アベリアは私に微笑んだ。
深夜、町民たちは久しぶりに地を揺するようにして響き渡るバイクのエンジン音に窓の外を見やり、荒々しく街道を走り抜けるバイクと、それに乗る私たちの姿を目撃した。
「覚悟していたけど、やっぱり長いな」
私はアベリアにしがみついていた。ハンドルを握るのはアベリアだった。
「何にせよ全速力で抜けることには変わりないからっ!」
アベリアはバイクをさらに加速させた。振動が激しくなる。
町民に変化はなかった。もしかしたらこのままいけるかもしれない、と思った。
中心部を抜けて家屋がまばらになり、前方に関が見えてきた。
このまま関を突破して早くここから離れないと。その思いはアベリアも同じだったのか、体に力が入っていた。そしてとうとう道沿いから家屋が消え――――
気がつけば、アベリアと私はバイクから投げ出されていた。深夜の空を仰ぐようにして。
私たちはそのまま地面に叩きつけられた。その瞬間に息が止まり、息苦しさから解放されたら今度は激痛が体中に走った。
朦朧とする意識の中、アベリアがすぐそばにうずくまって激しく咳き込んでいるのが分かった。
「ゴホッ……ゴホッ」
「大……丈夫か……?」
「ハァ……ハァ……ハーブこそ……」
駆けてくる足音がした。
「何だ……?」
私たちは直視できないくらい眩しいライトで照らされた。
「国境……警備隊……」
アベリアが言葉にした事実は計画の失敗を意味していた。
バイクを探すと、何かに撃ち抜かれたかのような大穴があいていた。隊員に狙撃されたに違いなかった。
私たちは二人とも動けなくて、さらに武装した隊員に包囲されている。このまま関を抜けることは、もう叶わない。
そしてそれは、私の『波長異常』が町民に襲いかかるということを意味していた。
「あああああああああぁぁぁぁぁ!!!」
背後の町に一人の叫び声が響き、私は反射的に町を振り返った。
その声の主は家から通りに転び出た。綺麗な身なりをした女だった。
「どうした? 大丈夫かアンタ」
うめきながらふらつく女に一人の町民が心配して近づこうとした。だが、女はその町民の顔をガッと掴むと、すさまじい怪力で捻りあげ、首の骨を砕いた。ゴキッと重い音が町に響いた。
それからは一瞬の疑問の言葉さえも許さずに、恐怖が次々に町民を呑み込んでいった。
町に叫び声が満ちた。何かが壊れていく音が絶え間なく響いた。火の手が上がり、通りをなめるように広がっていって、残酷さに満ちた町を深夜の暗闇の中に浮かび上がらせた。
心の奥底から引きずり出された恐怖がすべてを飲み込んでいく。その巨大さに心が耐えられなくなり、次々に破れていく。町民の心の中からバンッバンッという音が聞こえてくるような気がした。私は思わず耳を塞いだ。
「うわああああああッッッ!!!」
私たちのすぐ近くでも、惨劇が始まった。
「おい! お前やめ……」
「ああああああああッッッ!!」
一人、また一人と恐怖を膨らませ、抗おうとする者はすべて破壊者へと変貌を遂げた。
自分は本当に生者の世界にいるのだろうかと思った。
「ごめんハーブ……」
アベリアが私のもとまで這って来てくれていた。
「こうなってしまったら、最後の一人になるまでボクたちは何もできない……」
アベリアの声はかすれていた。
「申し訳ないなんて思うんじゃない……」
私の体は自由を取り戻しつつあった。私はゆっくりと手足を動かして体を起こし、アベリアの目をしっかりと見た。だが、アベリアは私の目を見ようとはしなかった。
「アベリア!」
自分では声を張り上げたつもりだったが、ほとんど呼吸音でしかなかった。それでも、アベリアは不安げな目で私の目を見た。
「ここまで進んだ」
「でも、突破できなかった……」
「こうなるしかなかったんだ」
きっと、誰かに甘えたままにさせてくれるほど、世界は優しくない。
「私が生きようとすれば、必ずこうなるんだから」
「違う……」
「いつもはお前が私を諭すだろ」
「ボクがハーブを進ませてあげるんだ!」
「黙れ」
アベリアがハッとなった。
すでに隊員たちは動かなくなっていた。
「私のやるべき事は決まっているだろ?」
「ハーブにはできないよ……」
私は腰のナイフに触れた。とても冷たい金属のはずなのに、まるで体から熱を引き出そうとしているかのように、触れた手に熱さを感じさせた。
「大丈夫。私だけの力じゃない」
世界よ見ていろ。私はお前の厳しさに負けない。
私は立ち上がってアベリアに背を向け、町の中央へと駆け出した。
「アァ…アァ……」
最後に残っていたのは屈強そうな男だった。腕をだらりと下ろしてふらふら通りを歩き回っていた。
私はナイフを抜いた。小ぶりな刀身に映る、廃墟と化した町。生きているのは私と男だけだった。
次第に自分の意識が体の周りへと集まっていった。私の世界から、空が消え、音が消え、温度を感じなくなり、自分と男だけになった。
頭がこの上なくクリアだった。何をすべきか、どうすべきか、何もかもが迷いなく理解できた。
男はもうすぐ『波長異常』に適応するはずだ。その瞬間、この世にこれほどの仕打ちがあろうかというほどの絶望と苦しみを味わうことになるだろう。
私のそれとは違うけれど、それでも分かる。傍観者だった私とは違って、その深さもより大きいに違いない。生に執着するのを忘れてしまうほどに。
だから、私はナイフを振り抜こうとした。
その刹那に、男は現実に帰ってきた。
「神は無慈悲だ…………」
天に放たれたそれは、男の遺言だった。
それをはっきりと聞き取りながらも、私は不思議なくらい綺麗にナイフを振り抜けた。首の骨の間に、刃をなめらかに通すことができた。
男は再び言葉を失い、そしてすべてが消え失せた。
私は男に何も言わなかった。言葉をかけることは許されないように思えた。私はこの男を、このような方法でしか救われることを許されない存在へと追いやってしまったのだから。
これは私が作った道の上だ。誘い、惑わせ、この世界ではない場所へと送り届ける私に救いなどない。自分の道へ人を惹き寄せる匂いを放つ。まるで芳香を放つ花のようで、でも私にはきっと花などない。
そんな綺麗な存在なら、私はあの時散っていたはずだ。
遠く道の向こうにただ一人残されたアベリアの生の気配。それがまるで消えていくように感じられるほど、町は濃密な死の世界となっていた。
私は手帳とペンを取り出し、新しいページに「神は無慈悲だ」と記した。そうしたいとなぜか思ったからで、他に理由はなかった。
私はゆっくりと通りを歩いた。
左右はもうすべてが火の壁だった。
足元には町の残骸が地面を覆い隠すように散っていた。
私が生きるために、こうして崩れていくものがある。本来ならば、私はこの世界から根こそぎ消え去らなければならないのかもしれない。生き続けることで、私は生きるべき者から命を奪っている。
私が太陽に向かって生を叫ぶ代償はなんて大きいのだろう。そこまでの価値が自分にあるかなんて、私は知らない。ただ生きて、他人の命を吸い取っている。
火が背後の残骸へと燃え移った。ゆっくりと私に近づいてくる。
このまま火に包まれてしまいたいと思えたならよかったのだろうか。
私は一度立ち止まり、通りの中央で町を見渡し、それからアベリアのもとへと駆け出した。
「ただいま」
私を見上げるアベリアは、信じられないといった表情をしていた。私が町で何をしてきたのか感じることができるはずなのに。
「さあ、行こうアベリア」
それでも私はアベリアに手を差し出した。アベリアが私にしてくれたように。その手を取る者を、自分と同じ道を歩む者とするために。
アベリアはなにも言わずに私の手をとった。私はアベリアを抱き上げると、歩き始めた。
どこへ向かうのか。東、ということしか決まっていない。私たちの末路はまだ分からなくてもいい。ただひたすらに人のいない場所を目指して進むことだけが、今の私が誰かのためにできることだ。
あの時から自分のためだけに振る舞ってきたのに、その私が今さら人のために何かをしたところでなんになるだろう、とも思うけれど。
そんなことを考えながら、私はアベリアと共に関を抜け、東国の地へと足を踏み入れた。
結論から言えば、東国にも当然人は生きているわけで、私たちにとっての楽園などなかった。
それがはっきりしたのは、国境を越えてすぐ入った広大な山脈地帯で、月が満ち欠けを一巡した頃だった。
「お前やっぱり不機嫌だよな。どうしたんだ?」
「何度も言ってるじゃないか、何でもないって」
「いや、でも……」
「うるさい!」
そう声を荒らげると、アベリアは走って先へ行ってしまった。
「はぁ……またか」
アベリアは私と口を利いてくれなくなっていた。
アベリアが駄々をこねているだけならばどんなに簡単な話だろう。でも、アベリアはそんな意地を通そうとする子ではないということを、私はよく分かっていた。
さてどうしたものかと考えながら、少し秋めいてきた山道を進もうとして、私は右手の斜面の上に家の影を見つけた。
一気に背筋が凍った。
一目見て分かる。人がいない廃屋ではなかった。
「アベリア……」
私の足は凍りついてしまったかのように動かなくなってしまった。
「アベリアっ!」
返事はなかった。
立ち止まったまま時間が過ぎていく。このままでは――――
ザザッと音を立てて、何かが転がり落ちてきた。山道の真ん中で止まったそれは、大きな剪定ばさみが深々と胸に突き立った、痩身の男だった。
そう分かった瞬間に、なぜか私の体は自由を取り戻した。
「そうか……終わってしまったから……」
私は、その男が確実に死んでしまう、と理解したから緊張を解いたのだ。
「なんて……」
なんて私は醜いのだろう。未だに自分の業を背負うのを拒もうとしている。あの時の決心は何だったのだろう。
私はその男に近づいた。
男はまだ生きていた。微かに息の音がしていた。
「誰だ……?」
「私は……」
何と答えればいいのか分からなかった。
「すまない……」
「どうして謝る?」
「瀕死の体をお嬢さんに……晒してしまって……」
「それは……」
お前のせいではないのに。そんな苦しそうな声で、なぜ他人を想うのだろう。
「自分で死ぬつもりはなかったのになぁ……」
私は見下ろしていてはいけないという思いにかられて、男の側にしゃがんだ。
男の体は、紅葉に彩られた山の中でも、ひときわ赤く見えた。
「名前を聞いても?」
私は手帳とペンを取り出した。
「レグール……」
私は新しいページにその名前を記した。
「お前の人生は幸せだったか?」
レグールの答える間隔が次第に伸びていることを、私は感じていた。
「これを見て……まだ聞く……?」
レグールは胸に突き立つ剪定ばさみを見やって、苦笑して答えた。
「申し訳ない」
「あぁ……死ぬって案外……怖くないなぁ……」
その言葉に私はハッとなった。
「私は……私は怖い……」
ペンを持つ手が震え始めた。
「そうか……ならお嬢さん……今から死ぬ俺が教えてあげるよ……」
レグールはもう目が開かなくなっていた。
「大丈夫だ……怖がることはない……世界は最期だけは赦しに満ちるから……」
レグールは最期の言葉を、最期の吐息に乗せた。
「ありがとう、お嬢さん」
まるで燃えているような山の中、私の目の前でまた命が終わった。
いつのまにかすぐそばにアベリアが立っていた。
「ハーブ……その……」
「想われてしまったよ」
「え?」
私は顔を上げた。
「こんな私が、人に想われてしまった」
私は今まで感じたことのない温もりを目に感じた。
私は開いたままの手帳に再びペンを向け、「レグール」の下に、「世界は最期に赦しに満ちる」と記した。その上に涙がこぼれた。字が滲んだが、私は書き直さなかった。
私はレグールを抱えあげて斜面を登った。とても軽くて、生きていたことが不思議に思えた。
「ハーブ……」
アベリアが遠慮がちに声をかけた。
「ん?」
「ボクは……怖かったんだ」
「何が?」
「ハーブが……どんどん強くなることが」
「どうして?」
「ボクはハーブがいないともう生きていけないから」
「それじゃ分からないぞ」
「ボクを必要としてよ!!」
斜面を登りきると、そこには小さな丸太組みの家と、小さくも花々の手入れの行き届いた庭があった。レグールの家で間違いなかったが、人の気配はなかった。
「私が信じられなくなったんだな」
「違っ――」
「違わない」
壁にシャベルが立てかけてあるのを確認して、私はレグールを庭の土の上に横たえた。
「だったらボクを見てよ!!」
「今までもずっと見てきた」
「ボクには分かるんだから!! ハーブがどんどんボクのことを考えなくなっていくことも、本当はもう一人でも大丈夫なくらい心が強くなってることも!!」
私はシャベルを掴み、庭を掘り始めた。少し水気が残る土はシャベルに抗わなかった。
「いいや、分かっていない」
「『感覚異常』をなんだと思ってるの?!」
「ただお前が感じるべきところを間違えているだけだ」
少し浅めの窪み程度に掘り終えると、私はレグールを再び抱え、そこにそっと下ろした。
「お前と出会ってから、私はお前に根を下ろした。でも、今は違う」
「やっぱりそうじゃないか!!」
「私が『生きたい』と思ったからだ」
シャベルを使うのはもう無骨だろうと思い、私は手で少しずつ土をすくい取って、レグールの上にかぶせていった。
「あの時、私は死にたくなかったからお前に縋った。そうしてお前に生かしてもらった。助けてもらった。ついさっきまで、私は死なないために生きていた」
私はレグールを庭に埋め終えた。すぐ近くに咲く花々は、時が過ぎれば庭を埋め尽くすだろう。
レグールは最期の瞬間に私を想ってくれた。人に想われていると感じさせてくれた。人を想うことを教えてくれた。レグールの最期は一瞬で、それに私は救われた。
そして、私はアベリアを想いたくなった。そのために私はアベリアに下ろした根を引き抜く。
「私は強くなったんだろうな。確かに一人でも生きることはできるんだろう。でも、私はお前のそばにいたい。死なないために生きるんじゃなくて、お前を隣に感じるために生きたいんだ。お前に私を感じてほしいんだ」
その思いはずっと持っていた気がする。でもそれはとても小さくて、漂うばかりのぼんやりとした思いでしかなかった。
次第にその思いが大きくなり始めたのは、国境を越えようとした頃からだろうか。そして今、レグールの言葉に助けられて、その思いは私の意志となり、私の言葉となって、アベリアに届けられた。
「一緒に生きよう。私と生きてくれ、アベリア」
生きる目的が変わったからといって、私の背負う業は変わらないけれど、それでもいいと私は思う。
私が生きることで生まれる悲しみも、私は背負おう。生きるんだ。生きたいんだ。死を恐れるよりも、生きていたいんだ。
「『感覚異常』って野暮だね。ハーブが言葉にしなくても、そう思ってることはボクがちゃんと落ち着いたら分かっちゃってたよ」
「それでも、私はお前に言葉でこの思いを届けたかったんだ。お前こそ、ちゃんと私を見ろよ」
その通りだね、とアベリアは笑った。露を花弁にまとう花のような、可憐な笑みだった。
私には花が咲かないのに、人を惹き付け、幻を見せて、闇に溶かしてゆく。
それが私の生きる姿だ。
人は私がどこにいても、遠ざかろうとしても近づいてきて、『波長異常』に呑み込まれていく。彼らの苦しみは、彼らの最期に私たちが救う。
彼らは最期の瞬間に、いつも私たちに何かを遺してくれる。それは言葉であったり、記憶であったり、形見であったりする。
私たちはみんな生きていたというすべてを背負う。それが、私たちが生きるということ。手帳に埋まっていく言葉も、心に積もっていく記憶も、身につけられていく形見も、私たちだ。
みんな何かを遺すために何かを犠牲にしている。私たちも同じだ。私たちもきっと最期に何かを遺すために、この姿になったんだ。
人々は私たちを「死花の少女」と呼んで恐れている、と風の噂で聞いた。恐怖の波長にあてられない遠くから、私たちを見ていた者がいたのだろうか。
私たちは死んだ花ではない。ひとつは花がなく、ひとつは可憐に咲き誇り、互いに寄り添うようにして生きている。「死花の少女」と呼ばれるのは、なんだか嫌だ――――
「さてと……久しぶりだね、『死花の少女』」
その声は私を回想からも未来からも引き戻した。
先ほどまで悲嘆にくれていた少年が、あれほど強く抱きしめていた死体を投げ捨て、私たちをそう呼んだ。
「そうか……お前だったのか」
私が言葉を発するよりも早く、アベリアは剣を構えていた。山際の太陽が最後の光を刀身に差し、姿を消した。
あの時から少し背が伸び、声も変わっていたが、体は華奢なままだった。
紛れもなく彼だった。私に残された唯一の痛みの根だった。
「ハーブは何も変わらないなぁ。綺麗なままだ」
「お前は……穢れたようだな」
「ハハッ、違いないね」
彼は瓦礫の山を登ってきた。死体の骨を砕く音を響かせながら。
「そっちの子がなんでまだハーブといるのか知りたいなぁ」
彼はアベリアに微笑みかけた。その瞬間、アベリアは剣を抜いて彼に向かって突進していった。
「アベリアっ!」
「へぇ、アベリアちゃんっていうのか」
彼はアベリアの突進をなめらかにかわすと、すれ違いざまに彼を振り返り剣を振ろうとしたアベリアの腕に向かって、細長い針を突き立てた。
「ぐっ……!」
アベリアは彼に剣を当てることもかなわず、瓦礫の山を転げ落ちて森へ消えた。
「アベリアっ!」
「心配ないよ。アベリアちゃんは殺さない。ちょっとした毒針だよ」
彼は再び瓦礫の山を登り始めた。
「お前は……私を殺すのか?」
「そのために追ってきたからね。ずっと会いたかったよ」
私は瓦礫の山の頂上で足が震えていた。
「針だとさ、なんだか『死んだ』って気にならないでしょ? 安心してよ、こっちを使うから」
彼は手に持っていたもう一本の針をしまうと、腰からナイフを抜いた。もう私との距離は十数歩程度だった。
とっさに後ずさった私の足は、思ったよりも低く落ちた。
「うわっ!?」
そのまま体勢が崩れ、私はアベリアと同じように、でもアベリアとは反対の方に転げ落ちた。
「死にたかったんじゃないの?」
彼はゆっくりと瓦礫の山を下りてきた。
「というより、普通は死にたくならない?」
私の中に張られた彼の根はとても深かった。抜こうとしても、途中でちぎれて私の中で痛みを与え続けていた。
「ハーブから生きて逃れられたのは僕だけじゃないか。みんな死んじゃったんでしょ? よくそれで自分で死なずに生きてこられたね」
この身ごと抉らなければならないということか。生きるためには、死ぬような痛みさえも必要になるのか。
「ああそうか! やっぱりハーブは自分に嘘をついているんだね! 大丈夫、僕には分かるよ。ハーブは本当は死にたいんだ、ってね」
違う。お前はなにも分かっていない。
私は生きたい。生きるためなら自分を傷つけてもいいと思えるほどに。
だから私は、腰の短剣を抜いて、自分の体の言うままに構えた。
「ハーブにとっての僕は『救ってあげられなかった男の子』なんだね……」
彼はため息をついて立ち止まった。
「僕にとってもね、ハーブは『救ってあげられなかった女の子』だよ」
彼は跳んだ。私へと。もう私にとっては必要のないものを与えるために。
彼の初撃を横飛びでかわして視線を戻すと、彼はすでに着地点にはいなかった。
「だからっ!」
私の背に、彼のナイフが深々と突き立てられていた。崩れる私を彼は抱きとめた。
「僕がハーブを……救うんだ」
彼は笑っていた。
「すまない……あの時の私が弱かったばかりに…………」
その時にはもう、私は彼の根をすべて取り除いていた。
「はあっ!」
私は短剣を力の限りに握りしめて、彼の顔に突き刺した。
「がああっ!」
私を抱きとめる力が抜け、私は背中から倒れた。ナイフがさらに深く刺さった。
「ああ……ああぁ……!」
彼は目を押さえて悶え苦しんでいた。短剣は彼の右目を貫いていた。
「アベリア……」
私は背を貫くナイフの柄に触れながら、瓦礫の山の反対側へと近づいていった。
「アベ……リア…………」
心臓と同じ周期で傷がどくんと動き、痛みが走った。視界がはっきりしなかった。けれど、その激烈な痛みや朦朧とする意識すら、私には生きていることの証のように思えた。
「アベリア……」
辺りは月明かりに照らされ、頼りなく光を返していた。
「ハーブ危ない!」
前方からアベリアの声が聞こえた。私はその声が聞きたかった。私は朧げに見えるアベリアに手を伸ばした。
「アベリ……ア…………」
だが、私の手はアベリアに触れられなかった。
短剣が私の右肩から体の中心へと突き刺されていた。
「ハァ……やったぞ……今度こそ救えたんだァ!」
彼の声がすぐ後ろから聞こえた。
「あああああぁぁぁぁぁっっ!!」
アベリアの声が私の後ろに向かって飛んだ。アベリアの気配も私を通り過ぎて後ろへ飛び、気配がひとつ消えた。
そこまで感じて、私は地面に倒れた。
「ハーブ! ハーブ!」
アベリアは私の体を抱え起こした。
「アベリア……?」
「そうだよハーブ! しっかりして!」
アベリアは私に刺さるナイフと短剣に触れ、ゆっくりとその手を下ろした。
「生きよう……アベリア…………」
自分でも分かっていた。
「うん、なんでもする……なんでもするから…………!」
アベリアの言葉からも、それが避けられないのを感じた。
死なないでくれ。生きてくれ。
私はアベリアに想われていた。
本当に嬉しかった。
私は震える手でポケットから手帳とペンを取り出した。
「あげ……るよ…………」
私の荒んだ心に染み込んできた言葉が、そこには記されている。私に生きていることを感じさせ、生きたいと思わせてくれた。
「やめてよ……」
「あの日……お前に救われた……私のすべてを……残している…………」
「嫌だっ!」
「私は……お前ともう…生きられない……だろう…………?」
アベリアが息を呑むのが聞こえた。もうはっきり感じ取れるのは音だけになっていた。
そう、私は死ぬんだ。
とうとうこの時が来てしまった。
でも、アベリアがそばにいる。
私を想ってくれる人がいるというのは、これほどまでに嬉しいものなのか。
自分が生きた証もそこにある。遺したかったものもちゃんと託すことができた。
レグールの言葉が浮かぶ。『世界は最期に赦しに満ちる』。身をもってその通りだと分かった。
私が死を看取り、天に送り届けてきた命を想った。彼らが遺したすべてを、私は生きるための糧にしてきた。彼らにさえも、今この時には赦されたように思えた。
今が、私の最期の時だ。
もう言葉も出せなくなってきた。でも、私たちはまだ通じ合うことができる。
「アベリアがいなくなったら……ボクは…………」
死んでしまう?
「そうだよ……だからお願いだ……ハーブ…………」
私がアベリアにお願いするよ。
生きてくれ、アベリア。
「できないよ……」
大丈夫だ。お前はこれからも生きていくんだ。
「ボクの隣で生きていくんじゃなかったの!?」
ごめんな。私はもう赦されたんだ。
「嫌だ……嫌だよ…………」
お前も赦してくれ、アベリア。
「赦さないよ……」
ありがとうアベリア、私を想ってくれて。
「ああ……ああああぁぁぁ…………」
……もう言葉も出ないか。
ダメだなぁアベリアは。そんなんじゃ私は――――
お前から離れられないじゃないか……
ハーブは世界に赦されながら、永遠の安らぎを得た。
そしてその瞬間、ボクの世界は闇に閉ざされた。
本当は、『感覚異常』はただ人の思考や感情が感じられるだけのものではなかった。誰かの意識がボクに向けられなければ、ボクは世界を感じることができなくなってしまうのだった。
ボクは親を知らない。わずかに向けられる意識も、他人行儀で今にも消えそうなものばかりだった。時にはみんなボクを忘れてしまって、延々と続く虚無の時間を過ごした。その恐怖は本当になによりも大きかった。
ボクがハーブを救った最初の理由は、常に襲いかかる恐怖の波長さえもが、自分に向けられる意識という点では必要なものだったから。ハーブがいなければ死んでしまう、という言葉は嘘じゃなかった。ボクにとっては、なにも感じられなくなることは死ぬことと同じだった。この世界に感じるすべての恐怖を煽られようとも、死の前では無力も同然だった。
ボクたちは最初、お互いに寄りかかっていた。けれど、ボクたちの互いに対する意識は変わっていった。
ハーブはボクのそばで生きたいと言ってくれた。
ボクもハーブのそばで生きたいと思った。
幸せだった。ハーブがボクを思ってくれたことが。
嬉しかった。ハーブがずっと隣にいてくれることが。
だから、ボクはハーブに残った最後の痛みの根を、ボクの手で抜いてあげたかった。
でも、僕の手は届かなかった。生きたいという、ハーブの願いを叶えてあげられなかった。
そして今、ボクは死の世界にいる。隣には、誰もいない。
ふと、手に感触があった。
……感触が?
この世界には存在しないはずの「感覚」という概念が生まれていた。
手を見ることができた。そこには、角が丸くなり、前面に大きく切れ込みが入った手帳があった。
手帳を開くことができた。さらりという音を聞くことができた。紛れもなく、ハーブの手帳だった。
そう分かった瞬間、ボクはページをめくった。
ハーブの綺麗な字が、様々な言葉を記していた。
『後悔も消えてしまうんだな』
『神は無慈悲だ』
『いい人生だったよ』
『俺はお前を許さない』
『ごめんなさい』
『私が生きていたことを、覚えていてください』
みんな生きていたという紛れもない事実を、ハーブは手帳に残していた。
ボクは体がじんと熱くなるのを感じることができた。ハーブは誰よりも死の近くにいた。誰よりも、生きるということを大切にしていた。
真ん中くらいに「『波長異常』命名者:アベリア」の文字を見つけた。わざわざ書くことでもないのにと笑ってしまった。
涙で滲んだレグールの言葉があった。ハーブはじゅうぶん赦されるに値することをしてきたんだ、とボクは思った。ボクもこの言葉を信じようと思った。
手帳は白紙を残していた。ボクはそこに自分も何かを残そうかと思いながらページをめくっていき、一番最後のページにたどりついた。
そこは白紙ではなかった。たった一行の言葉が記してあった。
「私と生きてくれてありがとう」
そう語りかける声が聞こえた。
……聞こえた?
ボクは声が聞こえたほうを振り返った。
「さあ行こう、アベリア」
差し出された手は、あの時と同じだった。
ボクは迷うことなくその手をとった。
「これからもずっと、隣にいよう」
頬を伝う涙を感じることができた。触れる手を感じることができた。
「来てくれてありがとう、ハーブ」
抱きしめられていると感じることが出来た。温もりを感じることができた。
すうっと透き通るような香りも、感じることができた。
花を持たなくても、喜びや安らぎを運んでくれる。
風に乗って、ボクのもとへと。
花がなくてもいい。
花が咲かないからこそ、ボクの心に君は来たのだから。
お読みくださりありがとうございます。
それでは最後に、僕から皆さんにひとつ尋ねましょう。
あなたは「花が咲かないから」の後にどんな言葉を続けますか?