下準備な勇者
エフテル大陸の中央から数千キロル北に向かったところにワルプルス山脈と呼ばれる地域が存在する。
存在する、といってもその実態はほとんど知られてはいない。
視界を圧倒する山々が連なっており、それぞれの高さは数キロルにも及ぶと言われていた。
その山脈のふもとまで降りていくと、その色は次第に白から土色に変わり、季節の移り変わりと共にやって来る遊牧民が移り住んでいた。
ワルプルス山脈は、地元の遊牧民からは神々の山と呼ばれていた。
嘗て人々の先祖となる者達があの山を越えて、この人の地にやってきたと言うのだ。
しかし、それが本当なのかどうかは誰も知らない。
息をするにも目を開けるにも困難を伴い、吹雪で白銀に輝く永久凍土の山は、とてもではないが人が近づけるような場所ではないのだ。
しかし、もし、もしもこの山に足を進め、方角を失わずに足元まで埋まる雪を何日も突き進み、その山脈を四つ五つ越えるという不可能を実現することが出来た場合、白い視界は突然に終わりを告げ、その代わりに緑の深森が現れる。
この人と魔物の両大陸からかけ離れた場所にあるこの緑の存在は、人にも魔物にもほとんど知られてはいなかった。
その緑の中には人の大陸では見かけられない虫や鳥が棲息し、不思議な音でからからと鳴いている。
その森を進んでいくと太陽の光がほとんど差し込まないほどに木の密度は濃くなっていき、その暗い森の中に淡い光や虹色の閃光がちらちらと色を添えている。
これは、妖精の光である。
妖精界から人の世界に散歩にきた悪戯好きや好奇心旺盛な妖精が、その鱗粉をまき散らし、深緑に光と色を灯すのだ。
そして、その帰路につこうとした妖精の足取りを静かに追っていくと、やがて七色に輝く泉にたどり着く。
きらきらと輝く泉は、こちらの世界を反射させながら、水面にただ不思議な桃色の世界を浮かび上がらせる。
この泉は、妖精の大地であるワーズワースに繋がっているのだ。
妖精はこのワーズワースの世界に住む平和を愛する種族である。
その大きさは手のひら程度で、人と同様の知能を持ち、人よりも高度な魔法を使う。
嘗ては表の大地エフテルで人や魔族とも調和していた時代があったのだが、争いが止まることのない世界に愛想を尽かし、この別世界に移り住むようになっていた。
人の世界に残る文献には、妖精やワーズワースの記載はどこにも存在しない。
ただおとぎ話の中でその存在が伝えられているだけである。
ワーズワースの世界では、妖精のねぐらが立ち並んでいる。
それぞれの家は、妖精の個性に合わせて大木をくり抜いて作られたもので、おもちゃの家をそのまま大きくしたかのような面白い造形に富んでいる。
大気は常に薄い虹色の霧に包まれており、どこもかしこも幻想の世界でないかと思うほどに美しい。
この世界の大気には、妖精が生きるために必要な魔力が満ち溢れており、妖精達は人のように生きるために稲作をしたり、牛や豚を飼ったりする必要はない。
妖精達は何も考えず、ただ遊び疲れるまでただこの世界を飛び回っているだけである。
その平和が満ちているこのワーズワースにある巨大湖の傍で、一人の男が地面につけた両腕を上下に動かしている。
その全身からは、蒸気かと見違えるほどの湯気が立ちこめ、泳いだ後なのかと思うほど体を濡らしていた。
彫の深い端正な顔立ち。
だが、横顔にあどけなさが残る。
歳は二十代前半といったところだろうか。
尺は一.七メルトル強。
黒髪の細身の若者だったが、体は引き締まっており、無駄な肉はほとんど見られなかった。
「三十、はっ、三十一、はっ、三十二、はっはっ」
男は腕立て伏せを終えると、そのまま加速してダッシュを行う。
それを、四本か五本か繰り返すと、今度は片手片足の先を地面につけたまま、左足と右手を同時に伸ばすという修行を反復し、それを何十サイクルか繰り返すと、魔法で体を回復させ、トレーニングを再開する。
腕立て伏せぐらいならば、男は何千回でも繰り返すことが出来る。
しかし、男は体術の専門家であるため、体には常に限界の八割程度の負荷をかけたほうが体が強くなることを知っていた。
その為、魔法を使い、ぎりぎりのところまで体に負荷をかけた状態で修行を行っているのだ。
男が瞑想に入った。
これから魔力を向上させることだけに集中するのだ。
体の疲労が限界に達したら、壊れた体がよみがえるまで訓練を再開してはいけない。
この男の体は特別であった。
通常の人が二、三日をかけて体の再生を行うのに対し、この男の体は一日程度で完全に元通りになる。
この人物こそ、この世界に現れた伝説の四人の勇者のうちの一人、拳王カイエンである。
妖精の国に入って、カイエンはただ一人で研鑽を積み重ねていた。
一日の僅かな時間を武術や筋力の向上につとめ、それ以外の時間は生きた精霊に囲まれたこの地で魔力を高めていた。
それは歴代の勇者と比べても極めて特殊であり、そしてその強さも今までには見たことのないものであった。
それでも、彼は訓練を止めなかった。
能力が限界に近づこうと、苦手分野である回復や支援魔法のスキルを高めておかなくてはいけないと考えていたからである。
そのため、魔力を効率よく高めることが出来るという妖精の国まで足を運び、こうやって一日の大半の時間を訓練に使っていた。
これらの努力は、すべて魔王ローザロッテを倒すためだった。
そのカイエンの常軌を逸した訓練模様を、屋敷の屋上から眺めている人物がいた。
妖精界の王女キリアである。
ぱっと見は人の姿形をしているが、目や髪飾りから伸びた髪は共に緑色で、白い衣装に隠れた耳は先っぽが少し尖っており、肌は雪のように白かった。
ただ、その表情は微笑ましいや喜ばしいというものからはかけ離れた、苦々しい色を浮かべている。
やがて、何かを決心した表情で王女キリアは建物から出て、ゆっくりとカイエンとの距離を縮めていった。
その気配をすぐに察知したカイエンは、姿勢を保ったまま瞑想をゆっくりと解いていった。
「勇者カイエンよ、修行の最中、申し訳ないのですが」
「はい」
「あなたはいったい、いつになったら魔王ローザロッテを倒しにいくのですか」
率直な質問だった。
それはキリアだけではなく、この妖精界にいる大半の妖精が同じことを思っていた。
カイエンが一人で妖精の国にやってきたのは今から約一年前のことである。
初めてカイエンの姿を見たときキリアは驚きの表情を隠せなかった。
まだ、彼は魔王を倒していないと言った。
妖精界は人と魔物の地からかけ離れたところにあるので、勇者が冒険のついでに寄るような場所ではない。
この妖精界というのは歴代の勇者が魔王を封印した後に来ることが大半なのだ。
しかし、カイエンは妖精界の噂をどこかで聞きつけ、魔王の大陸に進む前にここにやってきた。
戦いを少しでも有利に進められる情報や武器、禁術などが眠っていないのかを探りにきたのだ。
それだけでも驚きなのだが、カイエンは既に冥界、天界といったやはり歴代の勇者が魔王を封印した後に寄るような場所をも訪れており、死王や、天竜にも会っているという話を聞いたときは度肝を抜かしたものだった。
「いえ、魔王ローザロッテは数万もの魔物を抱えています。それを破りながら進むのは並大抵のことではありません」
「しかし、あなたは既に勇者として十分過ぎるほどの力をつけています。それは私が保証します。そもそも、この妖精の地に一人で訪れることが出来たということ自体がその強さを証明しているようなものです」
「いえ、まだです。回復魔法は未熟そのものです。これを、徹底的に鍛えなくてはいけません」
カイエンにそう言われ、王女キリアはただはあと答えるだけだった。
カイエンが妖精の国に留まるのを決めたのは、妖精が多く住むこの大地には様々な自然エネルギーが大気に溢れており、回復魔法の技術を向上させる上でこれ以上にないほどに好都合な場所だったからだ。
魔王のいる魔物の大地を進むには、自然の薬草だけでは限界がある。
治癒魔法を一通り使うことが出来なければ、いくら体術を極めし者であっても、魔物の地を進むのは困難を極める。
だからカイエンはこの地に留まることを決めた。
しかし、それはそもそも大きな問題ではないのだ。
「四人の勇者には、魔術を極めし者もいます。その人物がいれば、回復魔法を覚える必要などないでしょう。何故体術使いのあなたが、慣れない回復魔法を覚える必要があるというのですか」
キリアがそう言うと、カイエンは黙りこくった。
そう、これこそがキリアが最もカイエンのことを理解出来ない部分なのである。
カイエンが妖精の国に来て、三ヶ月目のことだった。
カイエンの口から「その話」を初めて聞いたとき、キリアは度肝を抜かした。
それは、キリアが到底考えも及ばないようなものだったのだ。
そう、カイエンはたった一人で魔王を倒すということを考えているのだ。
勇者は四人で集まり、それぞれの得意とする武器や魔法を使い、はじめて魔王や魔物を圧倒出来る力を持ち合わせる。
しかし、単独ではその力も激減する。
伝説の剣だけがあっても、伝説の魔法だけがあっても、魔王を打ち破れるものではない。
それぞれが組み合わさって初めて勇者の力は魔王を封じ込めるものへと変化する。
カイエンはそんな常識を無視し、たった一人で魔王に挑もうとしている。
戦いへの執念はもはや人間の物とは思えない。
いや、実際にはカイエンは選ばれし者であって人間ではないのだが。
一度、カイエンが本気で走っているところを見たが、ほとんど肉眼で捕えることが出来なかった。
キリアは何百年もの時を生き、今までも転生してきた歴代の勇者も幾つか見てきた。
しかし、目の前にいる人物は、今まで知っているどの勇者にも当てはまらないのだ。
それからカイエンは瞑想を再開した。
妖精の世界では夜の概念がないので、カイエンは瞑想を始めると、永遠に終わらないのではないかと思うくらい同じ場所に座り続ける。
そして、もそりと起きあがったと思うと、そこからは武術の訓練を始めるのだ。
ただ、それの繰り返しである。
いつ寝ているのかは全く分からず、恐らく瞑想の中で僅かな睡眠を取っているのだろうと思われるが、その違いはほとんど分からなかった。
しかし、実際のところ、その回復魔法の上達ぶりは驚くほどだった。
カイエン自体の魔法の才能はさておき、それに費やしている時間と集中力、そしてその執念たるやすさまじいものだった。
それからさらに二ヶ月が経過した。
カイエンの回復・治癒魔法は、凄まじいまでの発展を見せていた。
それは、カイエンが魔法使いの勇者であると言われても気づかないほどである。
ある日のこと、カイエンはキリアのところにやって来て、妖精界を降りるとその一言だけを伝えた。
「魔王を倒しにいくのですか」
カイエンは黙って首を縦に振った。
「ご武運を祈ります」
カイエンの腰にはトンファーとかぎ爪が掛けられており、全身には今まで見たことのない闘気が漲っている。
恐らくこちらの姿こそが、拳王のあるべき形なのであろう。
キリアが今まで見てきたものは、ただ不慣れなことを耐えながら覚える拳王の姿だけだった。
やるべきことはすべてやった。
キリアへ背を向け歩き始めながら拳王カイエンはそう自分に言い聞かせた。
カイエンは妖精界を降り、ワルプルス山脈を越えて、山の麓にある小さな村へと向かった。
一年二ヶ月ぶりの人の世だった。
カイエンはそこで準備を整えようとしていた。
カイエンの頭の中には、どうやって魔物の大陸に入るか、どう魔王ローザロッテに挑むか、ただそればかりがあった。
村のギルドに入り、人が少ないのに気付く。
カウンター越しに本を読んでいるオーナーと思しき初老の男に話しかけた。
オーナーは目線だけを上げて、怪訝そうな表情を浮かべる。
カイエンはまずは現状の魔王軍の状況を知ろうとした。
それから、戦況に合わせて日程を組み上げ、それに合わせた食糧や携帯用具の手配をしなくてはいけない。
カイエンは一つ一つ丁寧に質問を重ねていく。
それに対して、店主は口を開いて一言だけ呟いた。
そこでカイエンは全身を雷で打たれるような衝撃を受ける。
初めカイエンは何を言われたのか理解できないほどだった。
切迫した表情で、身を乗り出してもう一度聞きなおす。
しかし、オーナーは同じことを言うだけだった。
下界では、これから闘いに身を置こうとしているカイエンの芯を、砕きかねないような出来事が起きていたのだ。
「何を言っているんだ。魔王ローザロッテは、今から半年前、人類に対しての無条件降伏を受け入ているんだぞ」