Chapter6 不思議な少年
緑の絨毯を敷いたような草原の上。立ち上がって空を仰ぎ見る少年がいる。少年の瞳は何かを探すようにゆっくりと動いている。黒でも白でもない、悲しみと温かさを讃えた銀色の瞳。
やがてその瞳が一瞬、空の一点を見つめて止まった。それから少年の視線は自分の右側に向く。
そこには何処から現れたのか、一人の女の子が少年の方に駆け寄って来ていた。歳の頃は小学校低学年くらい。よっぽど急いで来たのか息は切れ切れで、綺麗な金色の長い髪も乱れてしまっている。
「シルフお兄ちゃん‼︎」
女の子はそう叫んで少年の足に飛び付いた。少年の足を抱いたまま、屈託の無い笑顔で少年を見上げる。
「おかえり、アリス。」
少年が微笑んでその女の子、アリスの頭を撫でてやると、アリスは益々嬉しそうに笑う。それから思い出したように少し真剣な顔をして言った。
「やっぱりお兄ちゃんの言った通り、訪れの森の祠、ピカッと光ってたよ。」
少年は表情を変えない。
「そうか。分かった。調べてきてくれてありがとう。」
少年は、そう言ってアリスの頭から手を離し、歩き始めた。アリスは怪訝そうな顔をする。
「お兄ちゃん、会いに行くの?」
「うん、少し出てくる。みんなにもそう伝えといてくれ。」
「分かった……」
アリスはどこか不満そうだ。少年はそんなアリスの様子に気付いたのか振り返って、すぐに戻るから、と付け加えた。アリスは頷いて微笑む。
「気をつけてね、お兄ちゃん。行ってらっしゃい。」
少年は片手を上げてそれに答えると、地面を蹴ってふわりと空中に浮かび上がった。
「わぁーー!」
瑠璃は思わず声をあげた。チェリアの案内のもと、訪れの森を抜けた瑠璃は今、辺り一面を見渡せる高い崖の上にいる。沈みかかった夕日に赤く染まった広い大地がどこまでも続いていた。瑠璃は地平線というものを生まれて初めて見た。
チェリアはそんな瑠璃を見てくすくすと笑いながら言った。
「瑠璃って面白いわね。何を考えているのか凄く分かりやすい。そんなに珍しかったの?確かにここは綺麗だけど。」
「うん!だってこんなに広い草原初めて見たから。私の世界では、少なくとも私の住んでいた町では、地面は全部固められて真っ黒だったし、高い建物に遮られて空だって見えにくかったんだ。だからこんな広い草原とか空とか見るの初めてなの。」
「そうなんだ。貴方の世界のことも色々聞いてみたいわね。…日暮れが近いわ。ちょっと急ぎましょうか。」
瑠璃とチェリアは崖を下って、買い物をするため、町へ向かった。その道を辿りながら瑠璃はアルフィランドのことをチェリアに話してもらった。
「この世界には人と魔物が住んでいるの。動物もいたけど、七年ぐらい前からかな。魔物が突然現れたことで数が激減して、今ではほとんど絶滅してる。人間も魔物の脅威に晒されながら生きているわ。」
「魔物、襲ってくるの?」
瑠璃は恐怖で声が震えた。
「ええ。でも大丈夫よ。魔法を使えば太刀打ちできるわ。」
チェリアは平然と答える。
「魔法ってどうやったら使えるの?」
瑠璃は首を傾げた。チェリアはうん、と頷く。
「この世界にはスフィアという球体のエネルギー体があって、それを体の中に入れると魔法が使えるようになるの。スフィアはそれぞれ炎とか、水とか、特定の力を宿していて、入れたスフィアに応じて使えるようになる魔法も違うのね。あと体の中に入れられるスフィアの数には上限がある。スフィアを体内に入れていて魔法を使える人を、この世界ではスフィリアって呼ぶわ。」
「そんなんだ。体の中にエネルギー体を入れる…凄い!そんなことが実現してるなんて!」
瑠璃は興奮していた。魔法。どこか神秘的な響きを持つその言葉。そして魔法に満ちたこの世界。きっとこの世界は私達の世界とは違ってあらゆることが上手くいっているんだろうな。瑠璃は漠然とそう思った。
「着いたわ。あそこよ。」
チェリアの指差した方向を見ると、小さな町、というより建物の群れが見えた。瑠璃はチェリアについて町に入った。
町の中には小さな家が所狭しと並んでいた。瑠璃の世界でいうなら西洋風な家。窓や屋根に色とりどりのガラスが埋め込んであってとても綺麗だ。一件一件の家の窓ガラスのデザインが違っていて、その家に住む人のこだわりを感じさせる。夕日に照らされて輝くガラスは柔らかな光を家の中に誘い込んでいた。
「ここはグラスラード。主に硝子とか、装飾品を扱う職人の町。この辺りは魔物も少ないし、治安が良いのよ。」
チェリアが歩きながら説明してくれる。町の中は流石に人が多い。チェリアが貸してくれた外套を制服の上に羽織っているので目立つことはないが、異世界から来たのが気づかれてしまうのではないかと、瑠璃は不安だった。しばらく歩くとチェリアは一件の店の前で足を止めた。
「私、ここで買い物をしてくるけど瑠璃はどうする?一緒に買い物する?それとも町の中を見に行ってくる?」
瑠璃は少し迷った。正直を言えば今ここでチェリアと別行動をとるのは嫌だった。しかし、いつまでもチェリアと一緒にいられる訳ではない。チェリアにこの世界のことを教えてもらった後は、瑠璃一人でこの世界を歩き回り、元の世界に帰る方法を探さなければならないのだ。瑠璃はそう思い町の中を一人で散策してみることにした。
その旨をチェリアに告げると、チェリアは頷いて言った。
「分かった。じゃあ、この店の前で待ち合わせしましょう。」
瑠璃は一人で歩き出した。チェリアの言うようにこの町は治安が良さそうだ。すれ違う人は優しそうな人ばかりだったし、時には瑠璃に笑顔で挨拶してくれる人もいた。瑠璃は少しだけ安心していた。
瑠璃がふと顔を上げると、こちらに向かって歩いてくる人が見えた。背は高くて少し華奢。髪は綺麗な金色。不思議な人だ、と思いながら瑠璃が歩いていると、その人が真っ直ぐ瑠璃の目の前に来た。
普通なら驚いて飛び退くところだが、その時の瑠璃は目を見開いたまま固まってしまっていた。シミ一つない白い肌。吸い込まれるような銀色の瞳。瑠璃は完全にその少年の美しさに見入っていた。少年は呆然と立ち尽くす瑠璃を見て、少し口を緩めると話し始めた。
「ごめんね。突然話しかけて。君が他の人間と気配が違うから気になったんだ。もしかして異世界から来たとか?」
少年の言葉に驚いて我に返った瑠璃は、一番言い当てられたくないことを言われ、明らかに動揺する。どうしてこの人はそんなことを聞くのだろうと思いながらも、どうにかして誤魔化さなければと思い、
「い、異世界なんてあるわけないじゃないですか。私はこの世界の人間です。」
と、なんとか言葉を紡いだ。
「ふーん。なら、出身地は何処なの?」
少年は僅かに眉をひそめた。また瑠璃は動揺する。
「しゅっ、出身地はこの町です。」
「……本当に?」
瑠璃が言い終わるやいなや少年が尋ねた。少年の声のトーンが低い。瑠璃は耐え切れなくなって頭を下げて言った。
「ごめんなさい。私、嘘ついてました。本当は私、異世界から来たんです。信じてもらえないかもしれないですけど。」
そう言って瑠璃が恐る恐る顔を上げて少年を見ると、少年の顔は先の穏やかな表情に戻っていた。その表情から少年が瑠璃のことを少しも疑ってないと分かった。
「信じて…くれるんですか?」
瑠璃が言うと、少年はふっと微笑んで言う。
「当然。正直に話してくれてありがとう。俺は基本的に人間は嫌いだけど、君のことは気に入ったよ。それに、君を元の世界に戻すこと、俺の力なら出来なくもない。まぁ、君が俺達の頼みを聞いてくれたらの話だけど。とりあえず君はもう少しこっちの世界にいた方がいいよ。」
瑠璃は瞬いた。この少年は何か瑠璃の知らないことを知っている。どうして瑠璃がこの世界に来たのか。どうやったら帰れるのか。この少年があちらの世界に帰る為の鍵となる、瑠璃は直感的に分かった。
「お願いです。私を元の世界に帰して下さい。頼みがあるなら何でもします。だから…」
瑠璃は言葉を続けようとしたが少年の声に遮られた。
「繰り返しになるけど、君はこの世界にまだいるべきなんだ。この世界に来た意味、よく探してみると良い。…それじゃあ。」
「あっ、待って!」
瑠璃は叫んだが、その少年の姿はもうどこにもなかった。