Chapter33 バルツの過去
ほのかな月明かりの元、瑠璃は銀砂を蒔いたような美しい夜空を見つめていた。夜空を旅する細い雲が、小さな星を目指してゆっくりと流れていく。
明日の出発の準備を終えた瑠璃は、町外れにある丘に一人やって来ていた。明るい頃には仕事の手を止めてひと休みする人々がここに集まってきていたが、今は瑠璃以外の人影はない。木々が風に揺れる優しい音が耳に心地いい。瑠璃が手に携えたランプの中で小さな炎がちらちらと揺れていた。
ーーあっちの世界はどんな天気だろう。お母さんも今頃この空を眺めているのかな。
そう思って瑠璃は空を見上げた。地上とは別世界のような空の中をゆっくりと流れて行く雲を見て、瑠璃は自分だけ置いて行かれてしまっているような気がして、どうしようもなく寂しかった。
あちらの世界では、人は死んだら天国にいくとか、星になるとかいうけれど、今はあちらの世界での日常がそうだった。目を閉じれば見えるのに、帰りたいのに、届かない。明日、瑠璃が踏み出す一歩があちらの世界へと近づくのか、遠ざかるのか。闇の中で手を伸ばしても虚空を裂くことしかできないように、行き方も知らない道ををただがむしゃらに歩き続けているような気分だった。
ーーそれでも、この道を辿るしか前に進む方法はない。その事実だけが決して動かぬ唯一の道標だった。
「おっ、やっと見つけた!」
不意に声が聞こえて、瑠璃の心臓が跳ね上がった。瑠璃が驚いて後ろを振り返ると、ランプを片手に、見慣れた少年が丘を上がってくるところだった。
「バルツ、ごめん。探しに来てくれたの?」
瑠璃が急いでバルツの方に駆け寄るとバルツは、にっと笑ってみせた。
「ああ。黙って出て行ったから心配でさ。……あっ、もしかして余計なお世話だったか?」
困ったように見つめるバルツに瑠璃は微笑みかけ、首を振った。
「ううん。ありがとう。探すの大変だったでしょ。」
「まぁ、ちょっとな。」
そう言いながらバルツは辺りを見回していた。
「けど、瑠璃。一体こんな所で何してたんだ?地面びしゃびしゃだし、こんなとこにいても座ることもできねぇぞ。」
「ちょっとね、あっちの世界のことを、お母さんのことを考えていたの。」
瑠璃は目を伏せて言った。
「なるほどな。瑠璃の母さんか。きっと優しい人なんだろうな。」
瑠璃は母のことを思い出してふふっと笑った。
「優しいっていうかすごく心配症で、過保護なの。連絡するの忘れたままちょっと遅くまで遊んでるいるとすぐにメールの嵐、夜遅くなる時はいつも迎えに来てくれたっけ。そういえば、聞いたことなかったけど、バルツの両親ってどんな人達なの?」
瑠璃が尋ねると、バルツの顔がぱっと輝いた。
「俺の両親か?えっとな、えっとな、母さんはすんげぇ美人でさ、優しい人だった。あっ、俺、顔は母さん似なんだ。だから黙ってれば、かっこいいって故郷の村の女の子達に言われてた。父さんはとにかく剣が上手くて、強いんだ。昔は兵士をやってて、城で働いてたんだけど、母さんと結婚するためにやめたんだって。なんかその国のお姫様の護衛をしてたから、その立場上、妻帯は禁止されてたみたいだからな。」
ふと、言葉を切ってバルツはぽつりと言った。
「……まぁ、もう二人とも死んじまったけどな。」
「嘘…どうして?」
瑠璃は思わず尋ねた。
「殺されたんだ。魔物に……。」
押し出すようにして出されたその言葉は怒りと、悲痛を感じさせた。瑠璃は俯いたバルツを見て深く後悔した。バルツはいつも明るいから、そういう悲しいこととは無縁なのだと勝手に決めつけて、軽い気持ちで両親のことを聞いてしまった。瑠璃は謝罪の言葉を言おうとしたが、言葉が見つからず何も言えなかった。
バルツは続けた。
「父さんは北の大陸で働いてたらしいんだけど、仕事を辞めたあと、母さんと一緒に南の大陸の小さな村に移ったんだ。父さん達はそこで牧畜をしながら生活してて、俺もその村で生まれて育った。父さん達の手伝いをしながら、暇な時には剣の稽古をつけてもらって、裕福な生活ではなかったけどすげぇ楽しかった。けど、七年前、俺が十一歳になったばかりの頃、突然あいつらは襲って来たんだ。村の奴ら、みんなで戦った。だけどあいつらはスフィアを持ってて、全然かなわなかった
家は燃やされて、村中火の海でもう助からないと思った。けど、母さんが、一人だけテレポートさせる分のスフィアを持ってたんだ。その時の俺はそのスフィアが一人分しか移動させられないぐらい僅かなものだとは知らなかったけど。母さんは俺に言った。いまから俺を隣の村に瞬間移動させる。後から自分たちもテレポートで行くから、その村で待っていなさいって。俺が、一人で行くのは嫌だって言ったら、親父は笑ってこの剣を渡したんだ。」
バルツは肩にかかった古びた剣を指差す。
「父さんと母さんはいつでも側にいるから大丈夫。きっと行くから、先に行ってって。それで俺は隣の村に飛ばされて、ずっと父さん達を待ってた。けど、いつまで経っても来なかった。三日待っても来なくて、いい加減俺も不安になって、村のあった場所に行ったらもうそこは、焼け野原に……なってた。俺の家のあった所で抱き合うようにして倒れてた二つの焼死体を見て、俺は両親の死を知った。」
「そんな…ことが……」
なぜか涙がとめどなく溢れた。胸がぐっと痛んだ。
「ごめん、バルツ。嫌なことを思い出させてしまって。」
瑠璃が涙を拭きながらそう呟くとバルツは寂しげに笑った。
「いいんだ、お前には話しておきたかったから。それに、どうせ忘れることなんてできねぇし、忘れちゃいけねぇんだ。俺は自分の力で生きてるってだけじゃなくて、俺を大切に思ってくれた人たちに生かされているからここにいる。今を生きてる。それを忘れるなんて、それこそ、両親に合わせる顔がねぇよ。」
バルツが時々みせるあの強い瞳、その理由が今の瑠璃にはよく分かった。
「バルツ、だから強いんだね。」
瑠璃が言うとバルツは首を振る。
「ちげぇよ。強くありたいって願ってる。ただそれだけだ。」
「どういうこと?」
バルツは空を見上げて答えた。
「父さんがよく言ってたんだ。この世に強くあろうともがく者はいても、強い奴なんて存在しやしないって。ただ己の中に信念があって、選択を迫られたその時、その信念に沿って動けるか、動けないか。それが強いか、弱いかの差だって。そう考えたら、恒常的に強い奴なんていないだろ?誰しも迷いや不安は持ってるんだから。……って真面目に話すとすげぇ恥ずかしいな。なぁ、瑠璃。今の話、分かった?」
バルツはただてさえランプの炎で赤い頬を、さらに赤く染めていた。瑠璃は笑って深く頷く。
「うん。すごくよく分かった。私も、強くありたいって願ってるから、感銘受けちゃった。ああ、確かに強さってそういうものだなって。」
どこのお父さんも素敵な人が多いな、瑠璃は心の中で呟いた。きっとお父さんも、私が難しい話を理解できるような年になるまで生きていてくれたら、同じような話をしてくれただろうな。またこぼれそうになった涙を唇を噛んで堪えた。
「なんだ、良かった。こんなに真面目に話して伝わらねぇとか恥ずかしくてしょうがないもんな。けど、父さん、もう一個変なこと言ってたんだよな。強いことは同時に脆いことでもあるって。今でもその言葉はよくわからねぇけど。」
「強いことは脆いこと?」
瑠璃は声が震えそうになるのを堪えて、平静を装って尋ね返した。
「そう、変な言葉だろ?俺の記憶違いかな、確かにそう言ってた気がするんだけどな。」
腕を組んで考え込んでいるバルツを見つめながら、心の中である言葉を思い出していた。
この逆説的な台詞、あの時と同じだ。瑠璃は静かに口を開いた。
「多分だけどそれで合ってると思う。強いことは脆いこと。きっとバルツのお父さんが言いたかったのは、信念を持って動くことはある意味一つの価値観に固執することだから、大切な人とか、大切にしてる思想とか、そういうものを失うとすぐに壊れてしまう、そういうことじゃないかな。それに、自分の信念以外の価値観を切り捨てることでもあるから、それはきっと何かを犠牲にする。」
「うーん、難しいけど、なんとなく分かった気もする。瑠璃って難しいこと、考えてんだな。」
「私じゃないよ、私も人に言われてハッとしたの。」
瑠璃は雲の隙間に見える月を見上げた。
「瑠璃はさ、やっぱりあっちの世界に帰りたいんだよな?」
唐突に言われて瑠璃は驚いた。
「えっ、う、うん。もちろん。」
瑠璃はなぜバルツがそんなことを聞くのか、不思議に思いながらも頷いた。
「そりゃそうだよな。わりぃ、忘れてくれ。……そろそろオムに帰るか。あんま遅いとチェリアが心配するだろ?」
「うん……。」
さっと歩き出したバルツの後を追って瑠璃は走り出した。