Chapter18 こんな美しい夜には
船旅が始まってはや五日。ここ三日は生憎の雨模様だったが、船員達の冷静な対応の元、船は順調に西に進んでいる。
ある夜、瑠璃はなんとなく寝付けなくて、眠っているチェリアを脇目にそっと部屋を出た。廊下の窓から月明かりがほんのりと差し込んで瑠璃の足元を照らす。瑠璃は物音を立てないように気をつけながら甲板に出た。
木でできた甲板の床はまだ少し湿っていたが、雨はもう上がっていた。外に出ると夜風が涼しい。南の大陸に近づくにつれ、気温は確実に上がってきていた。
瑠璃は空を見上げ、わぁ、と小さく声を漏らした。久しぶりに晴れた空に降ってきそうな程の星が所狭しと並んでいる。瑠璃は星の美しさに感動しながらも心の底で何かが疼くのを感じた。
ーーお父さん
瑠璃はそっと目を閉じた。
こんな夜は思い出してしまう。もう二度とは会えない彼のことを……
瑠璃の父親、水上裕人は警察官だった。近所でも子煩悩な父親として有名で、忙しい仕事の合間を縫って瑠璃とよく遊んでくれていた。
裕人は瑠璃によく語って聞かせた。「誰かを守れるような強い人になれ。」と。
事実、裕人はそれを体現したような人物で決して自分の弱みを見せず、いつでも他人のことを優先して行動する立派な人だった。瑠璃はそんな父親が大好きだった。
けれど瑠璃が七歳の時、悲劇は起こった。裕人が激情した犯人の凶弾に人質を庇って射たれたのだ。犯人はすぐに周辺にいた警官に抑えられ、裕人は病院に搬送されたが、治療が間に合わず死亡した。殉職だった。
ーー裕人が死んだ
その知らせはすぐに瑠璃にも届いたが瑠璃にはそれが信じられなかった。今朝、笑顔で瑠璃の頭を撫でてくれたのに。瑠璃は裕人の遺体を見ても葬式に参列しても涙一つ流さなかった。否、流せなかった。
瑠璃はそれから毎日ベランダから外を見て、帰ってくるはずのない父親を夜遅くまで待つのが日課になっていた。
ある日瑠璃がいつものようにベランダに出ていると、瑠璃の母親、香穂がやって来た。瑠璃は香穂の顔を見てびっくりした。香穂が目にいっぱいの涙を溜めていたからだ。香穂は言った。
「お父さんはね、もう帰ってこないの。とても遠い所に行ってしまったのよ。」
瑠璃は驚いたが、すぐに、そんなことない、と否定した。香穂は頭を振る。
「ごめんね、瑠璃。でも本当のことなの。お父さんはもうお空の上に行ってしまったのよ。」
「お空の、うえ……?」
瑠璃は空を見上げた。暗い空に数えるほどの星が輝いている。
香穂は瑠璃を抱きしめた。
「瑠璃、お父さんにはもう会えないけど、お父さんが生きてた時よく言ってたように強く生きていこう。これからは二人で。お父さんの言ってたことを守り続けることが、残された私たちが唯一彼のために出来ることだと思うから。」
お願い、わかって…瑠璃は痛いほどに抱き締められた。香穂の声は震えていた。
「強く、生きる…」
瑠璃はそう呟くと同時に熱いものが頬を伝うのを感じた。香穂の肩越しに見上げた夜空が滲む。瑠璃はそれから堰を切ったよう大声を上げて泣いた。本当に悲しいと涙は枯れないのだと瑠璃はこの時知った。瑠璃は泣きながら言った。
「お母さん、瑠璃、強くなるから。お父さんの代わりに瑠璃がお母さんのこと、守るから。」
あの日見上げた空も夜空で、星が見えたな……
瑠璃は静かに蒼い目を開ける。
考えてみれば、父親を失ったのも異界に来てしまったのも全部突然のことだった。
今の私は学校に行く、家に帰る、そんな当たり前の日常を失っている。そしてこのままあの少年を見つけ出せなかったらもう二度とその日常は戻らないかもしれない。一人家に残してきたお母さん、進んでいく授業、かけがえのない親友 。
本当に何もかも置いてきてしまったんだな。
そう思うと、もう我慢できなかった。瑠璃はしゃがみこんで声を殺して泣いた。こんなところで泣いてはいけないと思っても、あちらの世界の人の事を考えると、寂しくてたまらなくて涙がこぼれた。両親の声や顔が鮮明に浮かんできた。
「帰らなきゃ。今度は失ったりしない。」
涙を拭いて見上げた空には銀色の月が輝いていた。