俺が深夜のコンビニに行く理由について。その転換部分
フィルムに包まれた鮭のおにぎりと、レンジで温めるだけで食べられると書かれた具沢山の豚汁、海老とアボガドが乗ったサラダのパック、そして一日分の野菜が摂れるという野菜ジュースをレジに差し出せば、カウンター向こうの八坂君は眉間に深い皺を寄せた。
そんな八坂君の表情に、俺は思わず笑みを返す。どうだ、と言いそうになったのは堪えたが、恐らく、この笑みで俺が言いたいことはしっかりと伝わったらしい。八坂君の眉間の皺が一層深くなる。
「……うぜぇ」
「言葉が悪いなぁ」
サッカーやテニスなんかを嗜んでいそうな爽やかな容姿をしているというのに、心底不愉快そうに低音で吐き出された八坂君の声は、爽やかさの欠片もない。軽く笑って言葉遣いを指摘すると、八坂君は舌打ちと共にサラダのパックを手に取った。
いつもと同じ、日付が変わる直前の青いコンビニの店内。
今夜も人の気配はない。俺以外の客がいないのを良い事に、俺はにんまりと笑みを浮かべたまま八坂君に詰め寄った。
「これだったら、バランスも良いだろ? コメ、肉、野菜たっぷり。脂っこくもないし」
「こんな時間に飯食うってことが一番不摂生だっつってんだよ」
鼻息荒く言ってみたけれど、八坂君はばっさりと返す。
ほんの数秒前までは、今日こそは八坂君のチェックも花マルで抜けられると思っていたのに、今日もバツが付いてしまった。
夜遅くまで残業して、くたびれた身体を引き摺って帰路に着く。その途中で、自宅近くのコンビニで夕食を買う。家に帰ってレンジに買った物を放り込んで、ビール片手にぼんやりとそれを食す。
忙しさにかまけて、自分の身体のことなんて気にしていなかったから、そんな日々が「不健康極まりない」ということに気付かなかった。
気付いたのは、八坂君という名のウィルスチェッカーが起動してからだ。
通い慣れたコンビニのアルバイトである八坂君が、俺の選ぶ夕食に文句をつけ始めてから、かれこれ二週間経つ。
一週間前まではひたすら嫌味を言われるだけだった。時には十分近く延々と「おっさん、早死にするぞ」だの、「おっさん、メタボだろ」だの、「おっさん、血液どろどろだろ」だの暴言を吐かれて、元より疲れきっている身体を一層重くさせられることもあった。
けれど一週間前、ひょんなことから八坂君と打ち解けた俺は、毎日毎日、「どうすれば八坂君に暴言を吐かれない夕食を選べるか」と考えるのが、密かな楽しみとなっている。
そして今日も、八坂君の暴言スイッチがオンになった。
「おっさん、時計の見方も解んないのか。もう日付変わるんだぞ。一日分の野菜って、今日の分のつもりか、明日の分のつもりなのか? 食って寝るだけなのに品数多すぎ。おっさん、デブになるっつってんじゃん。どうせ胃もたれして、朝飯も食わないで仕事行くんだろ。悪循環だって言ってんじゃん」
「……ごもっともです」
今回も論破されるしかない。
確かに、八坂君に言われて夜遅くの至福のビールはやめたけれど、その分、品数を一つ増やしたせいか、なんとなく朝は食事を摂る気になれない。
わざとらしく野菜の量を増やしてみたけれど、朝の不調は食べすぎのせいだったのかと、今さら合点がいった。
がっくりと肩を落とせば、八坂君は大きな溜め息を吐いた。
「おっさんさぁ」
「八坂君、俺はまだ三十八だよ。おっさんではないと思うんだけど」
「おっさんさぁ」
「……もういいよ、おっさんで」
八坂君には勝てない。
職場では部下たちを統制している立場の俺が、大学生の青年にこてんぱんに論破されているところなんて、部下たちが見たら笑うかもしれない。
……八坂君からすれば、こてんぱん、は死語だろうか。
「おっさん、本当に、飯作ってくれる人もいないの」
サラダのパックを手に持ったまま、八坂君が呟く。ちらりと八坂君を見れば、彼はサラダの消費期限表示を見たまま視線を落としていた。
「いないよ。俺は八坂君とは違うんだから。学生と違って、この歳になれば出会いも無いしね」
「……ふぅん」
サラダを置いて、八坂君が顔を上げる。
ちょうどその瞬間、掛かっていた有線放送の音楽が途切れた。一瞬の無音と共に、八坂君の視線が刺さる。
すぐに、流行りのアイドルの音楽が流れ始めたが、八坂君はこちらを見つめたままだった。何か言いたげに口を開いて、そのまま黙ってしまう。
「……どうしたの、八坂君」
音楽がサビに到達しても、八坂君は話し出さない。焦れたこちらが問い掛けると、パクリと口を閉じてしまった。
無言でバーコードを読み込む八坂君に戸惑いながら、使い慣れた財布を取り出す。
おかしいな、とそこで思った。
八坂君が黙り込んでしまったこともだけれど、少しだけ寂しく感じた俺自身が一番おかしい。
ほんの二週間前までは、こうして無言で会計を済ませるのが当たり前だった。合計金額を告げる八坂君の声は、店内に流れる控えめな音楽に重なって、機械的に淡々と支払いを終えて、俺は一言も発さずに店を後にする。
そんな毎日をずっと続けていたけれど、今では、なんて寂しいんだろうと思う。
この静かな店内で、八坂君と交わす他愛の無い会話が、今では楽しくて楽しくて仕方が無いのだ。
ルーチンワークの日々に、知らずに心を病んでいたのかもしれない。そして、八坂君との交流の始まりは、確実に、単調な日々に明かりを射してくれている。
八坂君の声で我に返った。
ポカンと口を開いたまま瞬きを繰り返している俺に、七百三十二円。と、八坂君はもう一度言う。その目が、明らかに怪訝な色を見せていた。
「……寝てたの?」
俺から七百五十二円を受け取りながら、八坂君が眉を寄せる。いやいや、と慌てて首を横に振れば、二十円を返した八坂君は「ふぅん」と呟いた。
「おっさんのことなんてどうでもいいけど、さっさと寝た方がいいぞ」
「え?」
「目の下、隈酷いから。余計老けて見える」
言われて、指で目を擦った。少しずつ睡眠時間が少なくなっていたが、こんな所にその弊害が出ていたとは気付かなかった。
八坂君は、いつもよく見ているなぁ、としみじみ思う。
そう言う八坂君は、遅くまでバイトをして、朝は俺と同じ様な時間に登校しているというのに、つやつやと綺麗な肌だ。
若さの賜物なのか、それとも、俺に散々言うだけあって、食事や睡眠に気を遣っているからなのか……
ふと、腕時計を見下ろせば、あと二分で日付が代わる。
カウンター脇の従業員用控え室から、先程から小さく音がしていた。恐らく、八坂君と入れ替わりで勤務に入る店員が準備をしているのだろう。
「八坂君って、何時までバイトしてるの?」
問えば、一度眉を寄せた八坂君が、ちらりとカウンターの隅に置かれたデジタル時計に目を移した。
「あと二分」
「いつも?」
「いつも」
そうか。八坂君は夕方から日付が変わるまでのシフトらしい。
いつも日付が変わる直前に店を出る俺が、実質的に八坂君が捌いた最後の客になるのだろう。
俺が店を出れば、すぐに別の店員と入れ替わるのか。学生だというのに、遅くまで頑張っているな。
それなのに、こんなに元気そうなのは、やはり若さの違いか……
ふと顔を上げると、八坂君が眉を寄せて怪訝な顔で俺を見つめていた。会計を済ませたというのに一向に立ち去る気配が無い俺に、なんだよ、と低い声で問う。
そんな八坂君に、俺は暫し悩んだ末、よし、と口を開いた。
「八坂君、うちに来ない?」
「はっ?」
八坂君の目が大きくなった。精悍な顔付きの彼が、途端に幼い表情でポカンと俺を見たことに、思わず笑みが漏れて、それを誤魔化すように指で頬を掻いてみる。
「いや、八坂君って、いつも俺になんだかんだ言うだろう? 普段はどんな物食べてるのかなーって気になって」
「な、にそれ……」
八坂君は、目を丸めたまま俺を見ている。
だよねぇ。いきなり、大してよく知りもしないおっさんに、家に誘われたら、普通はそういう反応になるよな。
まぁ、聞き流してくれればいいんだけれど。
「なんてね、いやぁ、歳も取ると一人が寂しくて」
笑い飛ばそうと付け足すと、八坂君は更に目を丸める。
……そういう反応か。
若い子には、誤魔化し方にすらジェネレーションギャップを感じるしかない。同年代だったら、ここで一緒に笑っておざなりになるところなのだが。
どうしよう、と視線を僅かに逸らした途端、八坂君が大きな息を吐き出した。
ああ、気持ち悪がられている。と慌てて視線を戻してみれば、八坂君が吐き出したのは溜め息ではなく、深呼吸だった。
すーはーと大きく大きく息を何度も吐き出した八坂君は、こちらを見上げてくる。その目が、どこか泳いでいた。
「いい、けど」
「え?」
「行ってやってもいいけど」
八坂君は、手許でレジのバーコードリーダーを弄びながら視線を逸らす。その頬が、少し紅い気がした。
「え、え、本当?」
「な、なんだよ、冗談だったのか?!」
「いや、冗談ではないけど、無いんだけどね」
八坂君に睨まれて、慌てて首を横に振る。
冗談ではなかったが、まさか、頷かれるとは思わなかったから。
「いいの?」
そう念押しすれば、八坂君はぐっと息を飲み込んでから、やはり目を逸らした。
そして、目を逸らしたまま、別に、と少し上擦った声で口を開く。
「寂しいおっさんがこの後孤独死されてたら、俺の気分が悪いなって思っただけだし! つか、ボランティアだろ!」
「な、なんで俺が死ぬの前提なんだよ……」
相変わらず目を逸らしたままの八坂君に反論しようとしてやめた。手に提げられた白いビニール袋を見下ろして、思わず笑ってしまう。
「家の冷蔵庫に大したものは入ってないんだけどさ、ちょっと指導してくれよ」
「……べ、別にいいけど」
そう返してくれる八坂君に、顔面の表情筋がどんどん弛んでいく。恐る恐る視線を戻してこちらを見た八坂君は、俺を見て再度目を丸め、それから耳まで紅くして唇を尖らせた。
カウンターに置いてあるデジタル時計は、すでに日付が変わっている。それに気付いて、俺はレジから離れた。
「外で待ってる」
「……わかった」
頷いた八坂君に再度笑みを返して、俺は背を向けた。
いつもは一人で帰る道を、今日は八坂君と歩く。いつもは一人で食べる夕食を、今日は八坂君と食べる。
そう思うだけで、なんだか凄く楽しみになってきた。
同じような毎日に、どんどん明かりが射していく。
自動ドアを潜ってから振り返ると、控え室に駆け込んでいく八坂君の後ろ姿が見えた。
今夜は、きっと良い夜になるだろう。