第7章 夢物語と地獄の境界線
まるでよくある小説かなにかのようだと思った。
気がついたら、自分がいた世界とは全く違う場所にいる。そしてそこでイケメンや美少女と出会って、喧嘩や衝突を繰り返し、絆を深めていく。結局はご都合主義のそれらは、読み手にハーレム同然で繰り広げられる異世界ライフを満喫させることで、現実とは違った面白さを提供する。つまり、一種のエンターテイメント。
世界を救うだの、魔王を倒すだの、なにかしらの理由を付けられて、物語に翻弄される主人公。けれど結局はハッピーエンドで、彼も彼女も、みんな親交を深めた異世界から自分の世界――現実世界へと還って行く。そして、また本来あるべき自分の生活へと戻って行くのだ。
――なんて、思春期の少年少女じゃあるまいし。
そういった読み物はもう何年も読んでいない。私の生活圏内にあるのはビジネス書や資格取得のための教材で、夢物語に触れたのは学生時代か、それより以前のことだ。
それに、その手のお話の主人公は、中学生や高校生くらいの年齢で。大体が普通の見た目で、けれど隠された才能とやらを持っているという設定だ。
でも、自分はどうだ?
23歳、社会人2年目のただのオフィスワーカー。物語の主人公にしては、年齢が高すぎる。そして、秘められた才能なんてものはない。だって私は本当に、ただの会社員で、ただの女なのだから。
そりゃ、父親似の容姿と身長、そして妙に真面目すぎる性格が故に、学生時代は一般女子とは少々違う日々を送っていた。自分をいち登場人物として客観視し、特徴らしいものを挙げるとするならば、それだろう。
でも、それが一体なんの武器になるというんだ?
私は、ただのオフィスワーカーで、さらに病気持ち。
そう、これはきっと、病気の症状なんだ。会社で倒れた自分の不甲斐なさに嫌気が差して、現実逃避にリアルとは違う世界の夢を見ているに違いない。
――ああ、さっさと起きろ、自分。仕事はまだあんなにデスクにあるではないか。それに、できないならできないで上司に伝えなければ。それが社会人というものだ。
いっそ、今回も以前のように早退させてもらって、通っている心療内科に行ってもいいかもしれない。今日は予約日ではないけれど、電話を入れればなんとか診てもらえるだろう。
行く度に症状が変わる私に先生はいつも呆れ顔だが、この妙な夢の話だってきっと静かに聞いてくれる。なんでも冷静に受け止めてくれる先生だと、何度も通っている間に知り得た。そしていつものように薬をもらって、また明日から仕事に励めるように――
「・・・んんーっ」
・・・なにかイヤな声が聞こえた。
この病気になってからというもの、朝起きることがその日一番の重労働となった。
まず、意識が目覚める。そこまでは健康な時と変わらない。けれど、瞼が上がらない、体を起き上がらせられない。
全身は鉛となり、上から四肢を誰かに押さえつけられているような重圧感で支配される。
そして、激しい頭痛と腹痛。そのままもどすことも珍しくはない。ただでさえ起き上がれない状態だというのに、込み上げる吐き気と戦い、こんなときのためと常に枕元に置いているスーパーの袋に吐瀉する。寝転がった状態のため、そのまま吐瀉物があらぬところに入って数十分むせることだってある。
これまた動かない手で枕元のリモコンを探し、部屋の電気を付けて光を浴びる。カーテンにまで腕を伸ばせるほどの自由はもちろんないが、重い腕を上げて完全にくっついている両瞼をこじ開け、煌々と照らされる人工光と睨めっこをするくらいの気力ならある。さらに根気を振り絞って足をバタつかせ脳に血流を送り、起きるための準備の準備をする。
そんなことをときには1時間かけて、やっとベッドから起き上がれるのだ。
今回も、もちろん例外はなかった。意識は覚醒したが、体も目も1ミリたりとも動かない。幸い吐き気はなかったが、頭痛がひどい。
それでも日頃の習慣からか電気を付けようと腕を動かし枕元のリモコンを探すが、一向にあの固いプラスチックを掴めない。
それどころか、今私が寝ているのは、いつもの私のベッドではない。
私は、身長が高いがために普通のシングルサイズの敷布団では足が出て、夏場はともかく冬は寒くて仕方がない。だからいつも足を曲げて寝ているのに、今日はまっすぐ伸ばした状態だ。でも、足は敷布団にも掛布団にも挟まれていて、ぬくぬくとしている。
そして、いつもは上から押さえつけされているような重圧感が、さらに増していた。というより、なにかが私の体に乗っている。はっきり言おう、感覚でもなんでもなく、重い。
けれどそれはとてもあたたかくて、まるで特大サイズの湯たんぽを抱えているような気にさせる。けれど、我が家にあるのは枕サイズの通常サイズだし、今年はまだ出してすらいない。
・・・なら、これは一体なんなんだ?
電気も付かない、瞼も上がらない薄暗い闇の中で考えるが、痛みが邪魔をしてまともな考えなんてできるはずもない。「とにかく起きねば」と使命感にも似た気持ちだけを言動力に、必死に瞼をこじ開けた。少しでも気を緩めば落ちてしまう合金のような瞼を指で限界まで押し上げ、辺りを窺う。そして、軽い絶望感に苛まれた。
見上げた天井は、私の自室の白い壁紙ではなく、いかにも柔らかそうで滑らかそうな布だった。それが四方に垂れ、仕切りとなって一つの空間を築いている。
そして視界の下で、ぴょこっと生える一本の草。もとい、蜂蜜色のなにか。
それは、私の意識が飛ぶその瞬間までずっとこの腕に絡み、純真無垢な瞳を向けてきていた人物の髪の色と同じだった。
・・・なんだっけ、えっと。確か、そう――
「・・・レオー、さま?」
「くん」と言いかけたところで、封じ込められていた記憶が怒涛のように押しかけてきた。
そう、この甘いハニーブロンドの髪を持つ美少年の名は、レオー。はっきりとは聞かなかったが、99パーセントお偉い身分を肩書きに持つ美少年なのだ。
それが、なぜ私の体の上に乗っかっているのだろう?
痛む頭を抱えたまま、私の口からは自然と絶望を形にしたような重い溜息が吐き出されていた。