第2章 目覚めれば暗闇
まず気づいたのは、埃ともカビともつかない独特のにおい。それは2年ほど前まで通っていた大学の図書館に似ていて、懐かしいとまでは呼べない浅い思い出とともに、私の意識を目覚めさせた。
まるで鉛のように重い瞼を四苦八苦しながら開けば、そこはまさに暗闇の世界だった。
・・・なんて、冗談が過ぎる話だ。
もしやコレは夢なのか、さっきまであのタイル張りの冷たい化粧室に居たというのに――そう思ってふと痛みを感じた。見下ろせば、黒のストッキングが膝から縦に電線を走らせていた。手を当てるとあつく熱を持っていて、怪我をしていると詳しく見なくても分かった。
ということは、私が化粧室に居て、そこで倒れたことはウソでも夢でもない。
ならばここは何処なのだろう?
横たわっていた床は、毛足が長くやわらかい絨毯で。そこからまずは肘をつき、そろそろと上体を起き上がらせた。
辺りは薄暗い。窓がないのか、明かりがないからなのか定かではないが、見えるものはすべて輪郭がぼやけていて、なにがなにやら分からない。
見えないのならば手で触って確かめるしかない。用心しながら伸ばした指先に触れたのは、硬い感触。木だと分かってそのまま手を滑らせれば、それは棚かなにかのようだった。そして、その中に収められているのは、これまた硬いもの。触れるとひんやりとして、金属だと判断した。ほとんど同じ背丈・形をしたそれが、棚いっぱいに収納されている。
しかもそれは、どうやら一つではないらしい。だんだんとこの暗い環境に慣れてきた私の目は、その棚が遠く、闇に紛れてその形を失うまで並んでいるのを見つけた。
(倉庫? 備蓄室というには、少し違うか)
そんな感想を抱きながら棚に手をかけ、ゆっくりと体を立ち上がらせた。そして気づく。この棚の背は私よりも高く、頭上をはるかに超える高さであることに。
(地震が来たら、一発でおしまいだなぁ)
地震大国・日本で23年も暮らしているのだ。多少なりとも知識は持っている。
こちらも背の高さ・形はそろえられているらしい。同じような棚に同じような金属が入った棚の群れをいくつも越え、そこでふと手の感触が変わったのを感じた。
棚は同じ。でも、中身が違う。
さっきまで金属が収められていた棚は、今度はそれよりはやわらかい感触を私の手に寄越してきた。けれどこれがなにであるかは、やはりこの暗さの中では分からない。
それを見つけたのは、そんなことをしばらく続けていた時だった。
私のいる場所よりも少し先、距離にして20メートルほど先に、ほんのりとオレンジ色を灯す明かりを見つけた。
明かり特融の丸みと、あたたかな光の感覚に自然と体から力が抜ける。どうやら私は、このよく分からない状況に知らず知らずに緊張していたらしい。そしてその明かりの元へ行こうと足を踏み出したところで、気がついた。
誰かがいる。
正確には、その明かりは蛍光灯などのように壁や天井に設置されたものではなく、人間が持っているものだったのだ。
棚の影から、そっと窺う。明かりを持った人物は、きょろきょろと辺りを見回し、それから明かりを持つ右手を高く高く掲げた。それはその人の頭上を照らし、その段にある棚を照らしだす。その人も顔を上げ、傍から見るに首が攣りそうなほど懸命になって見上げ、そしてそろそろと左手を伸ばし出した。
この一連の動作に、探し物をしていて、それを見つけたことは私にも分かった。
そして。
ぴょん、ぴょんっ、
それに一切手が届かないことも、理解した。
なんせこの棚は、なかなかに背が高い。こういったらなんだが、私の身長は179センチある。日本人女子の中ではずば抜けて高い身長だ。それでも、この棚の高さには負ける。かと言って一番上の棚に手が届かないということもない。
明かりを持った人は、ちょうどその一番上の棚に目当てのものがあるのだろう。一生懸命に手を伸ばし、そしてかかとを上げるが届かない。ジャンプをしてやっと指の先が引っかかるか、かからないか。それをずっと、諦めることなく繰り返している。
(なんか・・・いじらしいなぁ)
推定身長、150後半のその人の頑張っている姿を見ていると、なにかしてあげなくてはという気持ちになってしまう。だから私は、ゆっくりと歩きだし、その人が取ろうと躍起になっているものを棚から引き抜いた。
「はい、取りたいのはこれ?」
まさかこんな薄暗い部屋に人がいるとは思っていなかったのか、その人は驚きに目を見開いた。そしてその目が黒や茶色ではなく、エメラルドグリーンであることに気づき、私も驚いてしまった。そして気づく。オレンジの明かりに照らされたその人の髪は、甘い蜂蜜がとろりと垂れるようなハニーブロンドだということ。肌も私とは違う、完璧なる白さを持っているということに。
(外国人だったのか・・・)
驚きの連続で、声が出ない。しかし、目の前のその人は私の差し出したそれを両手で受け取ろうとし、光を放つ――いわゆるランタンというヤツだろう――明かりとともに手にした。
「・・・ど、どうも、ありがとうございますっ」
上擦りながらも感謝の気持ちがにじみ出たその声色と、耳に心地よく響くアルトヴォイス。そして私を見つめ、見上げる瞳とその頬が、明らかに明かりのオレンジではない色味で染まり始めたのを見て、思わず呻きそうになった。
ああ、またやってしまったと。