其ノ六 ~蓮~
笑顔を浮かべた琴音が、うんうんと頷く。
ほんの少しだけ、一月と琴音、そして蓮――同じ師の下で剣道を学ぶ少年少女達は、自身を除く二人を視界に入れ、向き合っていた。
穏やかな風が木々をざわめかせ、彼らを覆い包む。
「そろそろ帰ろっか、遅くなるとおばあちゃん心配するだろうし……」
「そうだね。ん、そういえば……!」
一月はふと、気付いた。
琴音の叔母の話は聞いたことがあるし、自らも琴音に両親の話をしたことがある。
しかし、蓮に関しては違った。彼からは、両親の話を聞いた記憶が全く無かったのだ。
「そういえば蓮、蓮のご両親ってさ、どんな事をやっているの?」
「あ……そういえば私も、蓮から両親の話、聞いたこと無かったかも」
蓮の口から親の話を聞いた記憶が無いのは、琴音も同様だったようだった。
一月はただ、何気なく蓮に尋ねてみたに過ぎなかった。恐らくは琴音も同様だったのだろう。
「っ! ……」
しかし、一月と琴音の質問を受けた途端、明らかに蓮の様子が変わる。
彼は視線を逸らし、片手を側頭部に当てる。その体が微かに、震えているように見えた。
「ま、まあ色々やってんよ。俺の親父さ、すげーんだぜ! でっかくて力強くて、めっちゃデカい声出せて……お袋もさ! すんげー美人で友達多くて、さ、酒にも煙草にも強くて……!」
蓮は早口で、自身の両親に関する事を羅列していく。
しかし彼はそこまで言った後、蓮は「う、うっ……!」と発したまま、ガチガチと歯を鳴らす。寒がっているのかと思ったが、もう夏が近付いている時期だ。
ならば一体、どうしたと言うのだろうか。
「……蓮?」
呼び掛けると、蓮は我に返るように一月と視線を合わせた。
「ちょっと蓮、どうしたの?」
続いて琴音が問う、すると蓮は頭を振るわせた後で、囁くように言った。
「別に……何でもねえよ」
いつもの彼に見合わず、消え入ってしないそうな小さな声だった。
蓮は駆け出し、一月と琴音に背を見せる。
「俺、先に帰るよ。暗くなってくるしさ」
そう言い、返事を返す間もなく――蓮は歩き去って行ってしまう。
小さくなっていく同門の後姿を、一月はただ見つめている事しか出来なかった。
「いっちぃ、蓮……どうしたんだろう」
「分からない。でも、ご両親と何か……?」
琴音に応じる。
「とりあえず、僕達も帰ろう」
琴音が頷き、一月の隣まで走り寄ってくる。
同門の少年を案じながら、一月と琴音は共に、公園を後にした。
◎ ◎ ◎
出間蓮は、年季の入ったアパートを見上げていた。
白い外壁は至る所が破れ、茶色い面が剥き出しになっており、誰も住んでいない一室の窓ガラスは無残にも割れている。
地震でも起きれば恐らく、ひとたまりも無い――ボロアパートと言っても、間違いは無いだろう。
「っ……」
蓮は唇を噛み締め、衣服を捲り上げる。幼い少年の背中には火傷の痕跡――煙草を押し付けられた跡が、痛々しげに残されていた。
触れると、ズキリとした痛みと共に、これが自身の体に刻み付けられた時の記憶が脳裏を過る。皮膚が焼かれる感触、気が狂いそうになる程の痛み、そして、自分にこのような卑劣な仕打ちをする者への、凄まじい怒りと憎しみ。
それら全てが、まるでビデオを巻き戻して初めから再生し直すように、蓮の頭を駆け巡るのだ。
「まだ駄目だ、もっと……」
まるで自分自身へ言い聞かせるかのように、蓮は発する。
そして彼は覚悟を決めて、ボロアパートの錆び付いた鉄階段を上っていく。
◎ ◎ ◎
光陰矢の如しとは正しくこの事だと、一月は神社の石段に腰を降ろしつつ思っていた。
剣道を始めてから三年。六年生になった一月は、小学校最後の夏休みのある日に神社の祭りに出向いていた。
琴音を含む同じ小学校の友人数人と、唯一違う小学校の生徒ながら、蓮も共に来ている。三年の月日が経っても変わらず、一月にとって蓮は共に稽古に励み、喜びを分かち合える無二の友――親友と呼べる存在だった。恐らく、琴音にも同じだろう。
「今思えば、違う小学校だってのに、一緒に祭りに来るような仲になるなんてな」
隣に座っている蓮が、イカ焼きをかじりながら言う。
「本当。初めて会った頃が懐かしい」
三百円で購入した焼きそばを、一月は口に運ぶ。
と、そこへ琴音を含む数人の子供達が綿アメやたこ焼きを手に、歩み寄って来た。
「お待たせいっちぃ、蓮」
数年が経っても、一月には琴音が変わらなく思えた。
出会った頃と同様、彼女は真面目でひた向きで、優しくて――何事にも一生懸命な女の子だった。変わった所と言えば、ショートヘアにしていた髪を少し、伸ばし始めた事。
そして、いつも着ている白いワンピースの代わりに、今は白い浴衣に身を包んでいる事だろう。
「綿飴なんか食ったら太るぞ? こんな風にぶくーってな」
蓮が自身の両頬を引っ張り、琴音に向かって変な顔をしてみせる。恐らく、というか確実に悪意を込めて。
「……」
琴音は無言だった。彼女の小さな手が、ランニングからはみ出た蓮の腕をつねる。
「い、いだだだだだ! 冗談、冗談だって!」
少女と言えども、竹刀を握り続けて鍛えられた握力の前では、蓮を痛がらせる事など造作も無い。
「蓮、いい加減琴音にそういう事するの止めたら?」
蓮に忠告する一月の口元には、笑みが浮かんでいる。
琴音は怒る……というよりは呆れた表情と共に、言った。
「もう……蓮ってさ、私にお仕置きされたくてそういうことするんでしょ?」
「わ、蓮君てもしかして、変態さんなの?」
友人の一人の少女が明るげに言うと、もう一人の友人の男の子が「へーんたい、へーんたい!」と無邪気に発しながら、手を叩き始めた。
蓮は慌てて、否定する。
「ち、ちげえよ!」
「ふーんだ。いじわる蓮の事なんて知ーらないっ」
琴音は、ぷいっと蓮から視線を外した。けれど、一月には彼女が笑んでいるのが確かに見えた。
◎ ◎ ◎
神社の祭りを存分に楽しんだ後、一月は蓮と琴音と共に、帰路に着いていた。
「今日はすっげー楽しかった。誘ってくれてありがとな、二人とも」
剣道場で誘った時、正直一月も琴音も、蓮が来る可能性は低いと思っていた。というのも、彼一人だけが違う小学校の者であり、さらに蓮が知らない友人が二人も一緒に来るのだから。
けれど、蓮は嬉しげに目を輝かせ、「行く!」と即答したのだ。
彼は一月と琴音の友人達ともすぐに打ち解け、まるでずっと前から友達だったかのように仲良くなり、共に祭りを楽しんだ。
「こっちこそありがとう、来てくれて嬉しかったよ。蓮」
「私も」
蓮は照れるように視線を外すと、うんうんと頷いた。
すると彼は、夜空に浮かぶ満月を見上げて、どこか寂しげに言う。
「小学校最後の夏休みの、いい思い出になった」
「あ……」
一月も琴音も、知っていた。
小学校を卒業した後、蓮は村外の中学校へと進学する。そして彼は、剣道も引退する気なのだと。
一月と琴音が、蓮と共に剣道の稽古に励む時は――あと数か月で終わりを迎える。彼と違って村内の中学校へ進学する一月と琴音は、蓮と会う事も恐らく無くなるだろう。
「蓮……」
琴音が、呟くように呼ぶ。
すると蓮は一月と琴音を見る。その顔には、いつもの陽気な笑顔が浮かんでいた。
「へっ、何しょぼくれてんだよお前ら……俺一人居なくなったって、別にどうって事ねえだろ?」
「蓮、そんなこと!」
ある筈が無かった。蓮は同門であり、親友だと一月は思っていたから。彼との別れが、『どうって事ない』という言葉で片付けられる筈など……。
「バカかよ一月、別に今すぐグッバイって訳じゃねえ。あと何か月かあるじゃねえか」
いつも通り、蓮は快活とした様子を崩さなかった。
そんな彼を見て、一月は思う。きっと蓮は誰よりも辛い筈だ、自分や琴音よりも遥かに。
なのに彼は――そんな辛さを表に出そうとせず、笑顔と憎まれ口で真意を覆い隠し、気丈に振る舞っているのだ。
「だから一月も琴音も、それまでは宜しくな」
「蓮、これ」
琴音が差し出した手の上に、クマのマスコットが乗っていた。
受け取ると蓮はまじまじとそれを見つめる。
「いっちぃにも」
蓮に渡したのと同じ物を、一月も渡された。
茶色くて、目は黒いビーズで作られていて、口の部分はギリシャ文字の『ω』のような形をしている。鞄や携帯電話に下げるくらいの大きさの、ミニサイズのマスコットだ。
「はっ、何だよこりゃ。タヌキか?」
「やっぱり返して」
「や、冗談だっての」
蓮の軽口に反撃した後、琴音は言う。
「このクマさんね、私が作ったの。いっちぃと蓮にあげようと思って」
夏のにおいを纏った風に白い浴衣を揺らしつつ、琴音は笑顔を浮かべた。
彼女の視線が蓮に向き、
「蓮、もう何か月かでお別れなんだろうけど……中学に行ってからも忘れないでね。いっちぃの事、それから私の事も」
「……」
蓮は何も言わず、琴音から贈られたマスコットを見つめていた。
「もう何か月か宜しく。でも、離れてからもずっと友達さ、僕達は」
一月が告げると、蓮は踵を返して背を向ける。マスコットをそっとポケットに入れたと思うと、
「わ……忘れちまうと思うぜ、俺そんな賢くねえし」
微かだが、その言葉には笑みの色が含まれていた。蓮は嬉しがっているのだ。
「またな、二人とも」
一月と琴音に背を向けたまま、蓮は歩き去って行った。
ランニングを着た後ろ姿が遠くなり、次第に見えなくなっていく。
「くすっ、本当……素直じゃないよね。蓮って」
一月は琴音に頷く。