其ノ五 ~夕焼けの下で~
「それじゃあ一月君、今日は琴音さんと手合わせしてみようか」
放課後。いつものように稽古に励んでいた一月は、黛の言葉に耳を疑う。
「え……琴音と!?」
冗談なのだと思い、一月は問う。
しかし黛が首を縦に振るのを見て、そうではない事を悟った。
「お、黛先生。とうとう一月と琴音を戦わせるんですか」
側に居た蓮が、待ってましたと言わんばかりに発する。
続いて、一月と同じく指名を受けた琴音が、
「私が……いっちぃの相手をするんですか?」
琴音の言葉に疑問の色は無く、彼女はただ、これから自身が行う事について確認しただけである。
黛はまた、首を縦に振った。
「そう。手加減は必要ないよ」
「ちょ、ちょっと……!」
拒否する余裕も与えられず、一月はただ意味も無く発するだけである。
琴音の剣道の実力は、一月はよく知っている。彼女は少女でありながら、同年代で体格の良い男の子すら打ち負かしてしまう程の強さを持っているのだ。
明らかに勝ち目の薄い戦いを、何故黛はさせようとするのか。
「大丈夫さ一月。強い奴と戦うのは、大いに上達の助けになるんだし」
蓮が、一月の肩に触れつつ諭す。
「私も、いっちぃに強くなって欲しい。いっちぃも強くなりたいでしょ?」
彼女の言う通りだった。一月は頷く。
内心では、一月はこの事を期待していたのかもしれない。
剣道場で知り合ってから、琴音とは学校で会う機会も増え、休み時間等には一緒に遊ぶ仲になっていた。
同門として、そして友達として、琴音と戦ってみたいという気持ちがあったのだ。
「どうだい一月君、嫌だと言うなら無理強いする気は無いけど」
「いえ、やります」
黛へ即答すると、一月は琴音の向かいの位置に立つ。
「よし。一月君も琴音さんも、正々堂々と戦うように。礼!」
一月と琴音の、互いへ向けた「よろしくお願いします!」という声が、剣道場内に勇ましく発せられる。
◎ ◎ ◎
「別に気にする事はねえって一月。琴音は俺だって敵わないんだし」
「……でも、あれはもう試合にすらなってなかったと思うんだ」
夕日に照らされた鵲村の公園に、同じ師に学ぶ少年少女達は居た。
一月と蓮は、それぞれブランコの座板に座り、琴音はその向かいの安全柵に腰を降ろしている。一月も蓮もブランコを漕ぐ事は無い。ただ座って、三人で言葉を交わしているのみだ。
「何ていうか、僕はただ竹刀を振り回して、琴音は僕の面を一度叩いただけ。それだけの出来事っていう感じで……」
「そんな事ないよ」
安全柵に腰掛けた琴音が、一月の言葉を否定する。
「いっちぃ、竹刀の振り方も上手くなってるし、正直言って私……驚いちゃったもん。こんな短期間でここまで成長するなんて」
快活とした琴音の言葉、そこに嘘や出鱈目が無い事は、一月には十分に分かる。
しかし、一月は素直に喜ぶことが出来なかった。彼女が、自分を買い被っているように思えてしまうから。
「成長なんてしてないよ。僕なんてまだ弱いままさ」
「弱くなんかないってば。いっちぃ、もっと自信持ちなよ」
琴音が励ましてくれているのが分かる。しかし一月は、ネガティブな感情を捨てることが出来ない。
「ううん。僕は弱いよ、弱くて下手で……」
「んもーっ、じれったいなぁ」
突如、琴音が不機嫌そうな声を発したのが分かる。一月が視線を上げると、眉の両端を吊り上げる琴音の顔が映った。
安全柵からぴょんと飛び降りたと思うと、琴音が自身の後ろに歩み寄るのが分かる。
「うお、やべ、琴音お仕置きモードじゃん……!」
蓮が発したのが分かる。が、その意味を問う間もなく、一月の座っていた座板が勢いよく前方へと押し出される。
「うわあっ!?」
琴音が、少女とは思えない力強さで、一月の座っているブランコを漕いだのだ。
突然の出来事に驚き、一月は慌てて鎖を両手で握り、落下を防ぐ。ブランコが後方に揺れると、再び琴音が自身の背中を押し、さらに勢いが付けられる。
勿論の事、ブランコで遊んだ記憶はある一月だが、不意だった点に加えて、経験した事も無い勢いで揺らされている為、驚く。
「自分の事信じられなかったら、いくら練習したって強くなんかなれないよ!」
視界が勢いよく前進と後退を繰り返す中、一月は琴音の言葉を聞いた気がした。
「もっと、自信を、持つ!」
さらに力強く漕がれ、一月の体がほぼ水平になる。
「う、うあああああっ!? ちょっ、落ちる、落ちるってば琴音!」
「いっちぃ、分かったの!?」
何の変哲も無いブランコが、一月にはまるで絶叫マシーンのように思える。
とにかく、彼女が求める返事をしなければ止めてくれないと判断し、一月は叫んだ。
「分かった! 自信持つ、持つからやめて、お願い琴音!」
全力で目を瞑りつつ叫ぶと、ブランコが止まる。
彼女が両手で鎖を掴み、止めたのだ。が、一月は最早そんな事を気にしている余裕は無かった。
「おいおい、大丈夫かよ一月……?」
蓮に返事することも無く、目を回しそうな一月は座板から腰を上げて、ふらふらと側の木に背中を預けて座り込む。
「約束だよ、いっちぃ」
視界を上げると、琴音がしゃがんで一月を見つめていた。
先程までの不機嫌そうな面持ちは、もう影も形も無く、一月の前に居るのは何時もの琴音である。
「もう自分の事、けなしたりしないってね」
「ふーっ……分かったよ」
もう、一月にはそう答える以外の選択肢は無かった。
「肝に銘じとけよ一月、今度はこんなんじゃ済まないかも知れねえぞ?」
蓮の忠告に一月はただ数度、首を縦に振る。
もしかすると、蓮も琴音からこのような『お仕置き』を受けた事があるのか、と思った。
「にしても琴音、よく男子の乗ったブランコをあれだけ漕げるな。疲れねえの?」
「ううん。お父さんとお母さんと一緒に、よくブランコで遊んでたから」
琴音は視線を上げる。一月には、彼女が夕日を見上げているように思えた。
「休みの日とか、よくこんな風に三人で公園に来て、私、お父さんとお母さんの乗ったブランコを一生懸命押してた。お母さんは軽かったけど、お父さんはちょっと重たかったな……」
両親との思い出を吐露する琴音の横顔が、急に悲しげに見えた。
一月は、学校で彼女から打ち明けられた事を思い出す。そう、琴音の両親はもう――。
「悪い琴音、思い出させて……」
亡くなった両親を思い出させた事に罪悪感を感じたのだろう、蓮が琴音に謝罪する。
彼女は黙って、首を横に振った。
「いいの。もう私、そんな事でめそめそしないよ」
いつも通りの笑顔を、琴音は浮かべる。
「家族ならおばあちゃんが居るし、それに……」
琴音の澄んだ瞳が、一月を見つめる。さらに彼女は蓮にも視線を動かした。
「いっちぃと蓮と一緒に剣道やってたら、寂しさなんてどこかに行っちゃった」
満面の笑顔を浮かべる琴音。彼女にはもう、悲しげな雰囲気は跡形も無い。
可愛らしく清廉で、それでいてどこか儚げな印象を持つ彼女は、続ける。
「二人とも、これからも宜しくね」
「……ああ」
蓮が何故か、琴音から視線を外して応じる。さらに彼は、人差し指でぽりぽりと頬を掻いていた。
彼の様子が気になったが、一月も続いて返事をする。
「こっちこそ宜しく、琴音」