其ノ弐 ~琴音~
一月の様子を気にも留めずに、『彼女』は額の汗を拭った。
「ふう……」
そう、その子は――高い剣道の実力で自身よりも大柄な子を打ち負かし、一月を釘付けにさせるほどの強さを見せつけたその子は、女の子だったのだ。
短い髪形をしていて、活発な雰囲気を持っているが、それでも間違いなく女の子である。
澄んでいて、それでいてどこか儚げな瞳が、一月を見つめる。
驚きに言葉を濁す一月、少女は先んじて発した。
「秋崎琴音だよ、よろしくね」
屈託の無い笑みと共に、溌剌とした声。同時に彼女から、一月へ手が差し出される。
「あ……」
一月は未だに驚愕の色を薄めていなかったが、一先ず彼女の手を取る。
琴音の手はさらさらとしており、心地良い温かみを帯びていた。
「君は? 何て言う名前?」
初対面にも関わらず、琴音はためらいも無く、気さくに話し掛けてくる。
可愛らしい上に、明るい性格の持ち主――友達が多そうな子だな、と一月は思う。
「金雀枝一月、こっちこそよろしく」
「えにしだ君? 珍しい苗字だね」
「よく言われるよ」
珍しい苗字の多い鵲村でも、『金雀枝』という苗字はさほど例を見ないらしく、一月にとっては自己紹介の度に『珍しい』と評されるのが通例のようになっていた。
けれど、その苗字の事を切っ掛けとして話を弾ませ、相手と仲良くなることもまた通例のようになっており、そこら中にありふれた苗字ではない、という点に個性を持っている気もしていた。
他人のそれとは違う、という点にコンプレックスのような気持ちを抱く事もあるが、結論から言えば一月は自身の苗字に感謝しているし、嫌ってはいないのだ。
「良い名前だね、琴音って」
取っていた琴音の手をゆっくりと離し、一月は言う。
「え……そんなこと初めて言われたよ」
微笑みつつ、琴音は先程の一月の言葉とは真反対の返事をした。
すると、横に居た蓮がやんちゃに口を挟む。
「おいおい一月。もしかしてお前、琴音を口説く気かよ?」
「な、違うよ」
一月が慌てるように蓮へ応じると、琴音がむっとした表情で続けた。
「蓮、余計な事言わないの!」
琴音の叱咤を受けた蓮は、「ひぐっ……」とカエルのような声を漏らし、花が萎れるように縮こまった。
と、そこに拍手が鳴る。
その方向を一月が追うと、黛が笑みつつ手を叩いていた。
「微笑ましい会話を遮って済まない。けど今は稽古の時間中だし、本題に入らせてもらってもいいかな?」
蓮と琴音が頷いたのを見て、一月も同じように頷く。
「改めて紹介させてもらうと、彼女……琴音さんは一月君と同門で、剣道歴的には君の先輩にあたる子だね」
一月は頷く、すると黛は紹介を続けた。
「君も見た通り、琴音さんはかなりの剣道の腕前なんだ。私の弟子の中で一番の強さ、そう言っても恐らく過言では無いよ」
何の証拠も無ければ、一月には受け入れがたい事だっただろう。
少女である琴音が、あれ程強い蓮を退ける程の剣道の腕を持つ子である、などとは。
しかし、一月は何の疑いも抱く事無く、黛の言葉を信じる事が出来た。ほんの数分前に、彼自身の目で琴音の強さを目の当たりにしたからだ。
洗練された竹刀の振りや足さばきに加えて、彼女よりも体が大きく、よほど力もある筈の男の子に勝利してしまう琴音は、間違いなく『強い』だろう。
「いやそんな……黛先生、ちょっと言い過ぎですよ」
困ったように笑み、謙遜する琴音。
しかし一月の経験上、自分を『弱い』と言う者程強かったし、何よりも彼女の戦う姿を見ている以上、琴音の強さに疑いの余地は無かった。
自分の腕前を鼻に掛けようとしない琴音に、一月は好印象を抱く。
「言い過ぎなんかじゃないよ、さっき打ち合ってるの見たんだけど……本当に凄かったよ」
「ん、金雀枝君さっきの見てたの? 恥ずかしい所見せちゃったな……」
ふにゃりとした笑顔を浮かべ、琴音は人差し指でぽりぽりと頬を掻く。
一月はお世辞を言っているつもりではなく、感じた事をそのまま言っているつもりだった。
「褒めてくれてんだし喜べよ、女のクセに男倒すなんて怪物だろ……」
蓮は小さな声で言ったつもりだったのだろうが、一月の耳にはしっかりと届いていた。そして恐らく、琴音にも。
再び、琴音がむっとした表情を浮かべる、彼女の視線が蓮へと移動する。
「蓮、聞こえてるよ!」
「ひっ!?」
だじろぐ蓮。
「前々から言っている事だけど、蓮君はいつも声が大き過ぎるね」
「あ、それ言えてますね」
黛の言葉に、一月は笑みを浮かべつつ同意する。
蓮の大きな声は、彼の特徴と言っても間違いではなかった。
元気が良くて覇気が感じられる――と、そこまでは良いのだが、今回のような陰口も大きな声で言ってしまう為、相手が近くに居れば殆ど筒抜けだ。
「さあ君達、紹介も済んだ事だし稽古に戻ろう。蓮君と琴音さんは先輩として、一月君に色々と教えてあげるように」
「はい」
「了解っす。……俺はすでに色々教えてやってるけどね」
横目で一月を見やりつつ、蓮が言う。一月はうんうんと頷く。
そして、同門の三人は今日も一生懸命、剣道の稽古に励むのだった。
◎ ◎ ◎
稽古が終了した頃、剣道場の外は夕日に照らされていた。
竹刀袋を背負った一月は、顔を伝う汗を袖で拭いつつ、仄かな木々の香りを纏う風に身を預ける。
練習を終えた他の子供達と共に、蓮と琴音も剣道場から出て来た。
「今日もお疲れ様。それじゃあ君達、気を付けて帰るように」
黛に見送られ、一月は小さく頷く。
「さてと、じゃあ俺はこっちだから」
蓮が手を振りつつ、片方の道へと歩み行く。
一月が彼に手を振ると、琴音も同じようにした。
「じゃあね蓮」
「ばいばい」
自身と琴音に手を振り返しつつ走り去っていく蓮、その姿を見送った後。一月は琴音に、
「じゃあ僕もそろそろ、今日はありがとうね」
そう言って歩み始めようとした時、一月は後ろから呼び止められた。
「一緒に帰ろうよ。私も家、こっちだし」
「え……」
琴音からの思いがけない申し出に、一月は振り返る。
すると、一月と同じように竹刀袋を背負った琴音が、可愛らしい笑みを浮かべつつ走り寄って来る。彼女の短く切られた黒髪が、快活に揺れていた。
走り寄るや否や、琴音は有無を言う余裕も与えずに、先んじて歩き始める。
「ほら金雀枝君、早く早く」
まるでスキップをするかのような足取りと共に、無邪気な言葉を発せられる。一月は頷いて、琴音の後に続いた。
それから彼は、剣道場に通う際にいつも通る、鵲村の道を歩く。豊かに植えられた木々や、耳触りのよいせせらぎを奏でる川。見慣れているが、飽きを感じた覚えはない鵲村の風景を見つめながら。
しかし、今日はいつもとは少し違った。
そう。一月の隣を、琴音が歩いている事である。
「へえ……じゃあ金雀枝君、蓮に勝ったの?」
「引き分けただけ、別に勝った訳じゃないよ」
感心するように言う琴音に、一月は首を横に振って応じた。
「でも、剣道始めたばっかりなのに蓮と何分も打ち合えるなんてすごい。金雀枝君、絶対才能あるよ」
「そうかな? 僕なんてまだ全然初心者だし、そんな才能なんて……」
一月は自身なさげに呟いた。すると琴音は突然、一月の一歩前に出る。
歩を進めていた足を強引に止められ、一月は驚く。
言葉を発する間も与えず、彼女は言った。
「そんな弱気でいると上手くなれないよ? 自分を信じないと」
オレンジ色の夕日が、彼女の後ろで誇らしげに輝いていた。
眉の両端を少し吊り上げ、琴音は真剣な眼差しでじっと見つめてくる。
「強くなりたいんでしょ?」
琴音と視線を合わせつつ、一月は頷く。
すると琴音は、にっこりと笑顔を浮かべる。穢れなく無垢で、可愛らしい笑顔を。
「大丈夫だよ。黛先生に教えてもらっていれば、絶対今よりも上手くなれる。私だって黛先生に教えてもらって、男の子とも試合が出来るくらいになったんだもの」
弾むような声色で言われ、一月は自信が湧いてくるのを感じる。
琴音という少女が、不思議に感じた。彼女に励まされると、どうしてか思う事が出来るのだ。自分は、自分が思っている以上の実力を秘めているのだと。
頷きつつ、一月は応じる。
「ありがとう秋崎さん。もっと頑張るよ」
「琴音」
琴音から即座に返される。
「え?」
「琴音って呼んで、その方が仲良い感じするでしょ?」
一月は戸惑う。今日知り合ったばかりの女の子を名前で呼ぶ事に、どこか遠慮するような気持ちがあったからだ。
しかし、彼女がそう言っているのなら、断る理由は無いだろう。
「分かったよ、琴音」
「ありがとう。それじゃあ……」
琴音は視線を外して、考え込むような面持ちを浮かべる。口元から小さく、「一月、一月……」と声が漏れていた。
数秒後、何か思い付いたような面持ちと共に、彼女は一月に向き直る。
「『いっちぃ』!」
「……へ?」
彼女の言った意味が分からず、意味も無く返す。
「ニックネーム。一月だからいっちぃ、どうかな?」
一月は思わず、言葉を詰まらせる。
琴音がニックネームとして提示したそれは、ただ単に名前の一文字目を取って、その後に全く関係のない言葉を繋げただけの物だった。
簡単すぎる、というより単純な感じが拭えないニックネームである。
「ダメかな?」
言葉を発せずに居ると、琴音がまるで子犬のような目で見つめてくる。
自身が考案したニックネームに、気に入ってもらえる自信があったのだろうか。
「……いや、気に入ったよ。そう呼んでいいよ」
本音では微妙だったものの、一月はそう答えるしかなかった。
「わあ、やった!」
まるで花が咲き開いたような笑顔と共に、琴音はスキップでもしそうな足取りで、脇の道へと向かう。
一月を振り返って、大きく手を振りつつ、
「じゃあ私こっちだから。ばいばい、いっちぃ」
早速、命名されたニックネームで呼ばれる。
「うん、またね」
一月が応じると、彼女は一月に背を向けて走っていく。
気が付けば一月は、夕日に消え入るように見えなくなっていく琴音の後姿を、その場に立ちつくして見つめていた。