其ノ終 ~鬼哭啾啾~
(琴音……)
数人の友人と共に帰路に着く一月は、彼女の名を心中で呼んだ。
本当ならばすぐにでも謝るつもりだったのだが、休み時間や放課後は友人達にせがまれて英語の勉強を教えていたため、琴音に話し掛ける余裕を掴めなかった。
しかし、それは口実に過ぎないのかもしれない。本心では琴音に謝る事が――否、彼女に拒絶される事を恐れて、言い訳を並べているだけなのかもしれない。
「一月、どうしたんだよ? さっきからボーっとしてねえか?」
「……え? いや、別に」
友人の一人に声を掛けられ、一月は我に返る。するともう一人の友人が、
「そういや一月、今日は琴音と話してなかったな。いつもは羨ましい程仲良いのに」
「……放課後に話し掛けようと思った。けど琴音、すぐ教室から出てったから」
事情を友人達に話す気にはなれずに、一月はそう応じた。
そう、放課後に彼は琴音に声を掛けるつもりだったのだ。しかし、その前に他の女生徒が琴音に声を掛けたかと思うと、彼女と共に教室を出てしまったのだ。
「それ多分……園芸委員の仕事じゃねえの? 確か、テスト期間中でも休みにはならねえだろ?」
「!」
琴音は園芸委員だ。
だとすれば、彼女はまだ校庭に居るのかもしれない。
「……ごめん二人とも、ちょっと学校に忘れ物しちゃった!」
いかにもな嘘と共に踵を返し、一月は道を引き返し始める。後ろから友人二人が何かを言ってきたが、もう耳には入らなかった。
彼女に、琴音に会わなければ。そして昨日の事を謝らなければ――もうそれしか、一月の頭には無かったのだ。
一月が中学校に引き返した時、時刻は既に六時半を回り、辺りは薄暗さを帯び始めていた。
「はあ、はあ……」
全速力で駆けて来た一月は、自身が息を切らしていた事に気が付く。
けれど、立ち止まっている時間は無かった。彼は直ぐに、彼女が居るかも知れない校庭に歩を進め始める。
「……!?」
彼はその時――足に何かが触れる感覚を覚えた。
否、触れたというのは少し違う。ビチャッと言う音と共に、何か液体が靴に触れたのだ。
視線を下に向ける。
(これは……?)
すると、赤黒い液体が自身の片足に踏まれているのが分かった。
指で触れ、その匂いをかいでみる――その液体は粘々した感触があり、生臭かった。
(血……!?)
それ以外に、考えようが無かった。これは、人間の体から流れ出た血液なのだ。
「!」
気が付くと、一月が踏んだその部分から――コンクリートの地面の上に血の線があった。
流れ出た血液がまるで意図的にそうされたかのように、前方まで伸びているのだ。
――この線の先に、この血液の源がある。瞬時に一月はそれを理解する。
「っ……」
口の中が渇くのを、一月は感じる。
そして彼は、恐る恐る足を進め始めた。血の線を辿って。
得体の知れない恐怖を感じる、心臓が鼓動を速めるのが分かる。この先にあるのを見てはいけない、そんな気がした。
そして、血の線の源であるそれが視界に入った。
血の水溜りにその身を埋める――変わり果てた姿の、人間が。
「え……?」
初め、一月はそれが何なのか分からなかった。真っ赤な液体に浸された布か何かだと思った。
しかし、それには確かに人の足があり、手があり、中学の制服を着ており、そして、顔があった。
「あ……っ……!?」
両手足が不自然にねじれ、長い髪がカーテンのように顔を覆い、その隙間から覗く瞳は充血していて焦点を結んでいない。しかし、一月には分かった。
このゴミのように放置された、凄惨極まる遺体が――誰なのかが。
――秋崎琴音だ。
「っ……うわあああああああああッ!」
変わり果てた姿になった琴音を前に、一月は喉が裂けるような悲鳴を上げた。
意思とは無関係に呼吸が早くなる。様々な思考が入り乱れて、頭が破裂しそうになる。
何があったのか、どうして彼女がこんな事になったのか、そもそもこれは、現実なのだろうか。
(こんな、こんな事なんて……!)
現実であってくれるな、どうか見間違いであってくれ、どれ程そう願っても、一月の瞳が映すのは真実に他ならない。
彼は何年間も琴音の顔を見て来た、故に彼女を見間違えるはずがない。
例え命を持たない、肉塊同然の姿になったとしても。
「うッ……!」
彼女の腹部――制服ごと大きく裂かれたその部分を見た瞬間、一月は猛烈な吐き気を催す。そこからはドクドクと、真新しい血液が流れ出続けていた。
血の水溜りが彼女を中心に、周囲を侵食するかの如く広がっていく。
「ふっ、ふうっ……!」
震える手で、必死に携帯電話を取り出す。
「もしもし……警察ですか。あの……人が、人が……!」
途切れ途切れの声しか出せず、伝わったのかどうかなど分からない。
電話の相手の返事を聞いたと思った瞬間に、一月の意識が急に遠のいていった。
視界が、グラリと回転するような感覚を覚える。
「うっ……」
倒れる間際に、一月は頭部に激痛を感じた。石か何か、硬い物が打ち付けられたような感覚だった。
けれど、痛みを感じたのはほんの数秒――凄惨で残酷な光景に耐えられず、貧血を起こした一月の意識は、一気に遠のいていく。
(琴、音……)
次の瞬間、一月の視界から光が消滅した。
◎ ◎ ◎
気が付いた時には、もう私は生きていなかった。
命を失った自分がどうなっているのか、今、何処を彷徨っているのか――何も分からない。
いや、一つだけ分かる事があった。ある一人の人間の名前だ。
――金雀枝一月。
私はこの名前を憶えていた。
だけど、彼が私にとってどういう存在だったのかは、一切分からない。分かる事はただ一つ、私は彼の所為で命を失ったという事だけだ。
彼は私を裏切った。私に汚い言葉を投げ付けて、私が命を落とす原因を作り出した。
許せない。赦せない。ユルセナイ。
殺してやる。復讐してやる。私と同じ目に遭わせてやる。
ふと、自分の体を見つめてみた。すると、真っ黒な霧が全身を覆い包んでいた……。
鬼哭啾啾 零 ~男の子と女の子~
終
“鬼哭啾啾 ~置き忘れた一つの思い出~”に続く……。