其ノ拾 ~最後ノ時~
次の日の放課後まで、琴音は一月に話し掛ける機会を掴むことが出来なかった。
本当ならば朝すぐにでも謝ろうと思っていたのだが、彼は決まって他の友人と試験の勉強をしていたし、さらに内心――琴音は怖かったのだ、一月に拒絶される事が。
一月の方も、琴音に話し掛けてくる様子は無く、自分の事を本当に嫌いになってしまったのかもしれない、という悪い想像だけが琴音の頭を支配する。
(分かってる。でも、それでも……)
昨日の喧嘩の原因を作ったのは自分自身。
許してくれなくても仕方は無いだろう。けれど、謝らなければ絶対に仲直りは出来ない。
意を決して、琴音は一月へと歩み寄ろうとするが――。
「ほら琴音、園芸委員の仕事始まるよ。早く行こう」
「あ……」
クラスメイトの女生徒に、制服の袖を掴まれてしまう。
「うん……分かった」
そう返事をし、琴音は一月を瞥見する。彼は未だに、友人と共に試験勉強をしていた。
もう、琴音の事など嫌いになってしまったのだろうか。
(いっちぃ……)
琴音は、頭に浮かぶ考えを必死に打ち消した。
「ごめん、行こう」
不安な気持ちを出さないよう、必死に笑顔を取り繕い――琴音は女生徒と共に、教室を出た。
彼女達の向かう先は校庭。琴音はクラスの園芸委員であり、校庭の花壇の手入れの仕事を請け負っているのだ。
放課後、一か月に二度程度のペースで雑草の除去や、花の成長を促す栄養剤を与えたりする。
その日もいつも通り仕事をこなしていき、気が付けば時刻は六時に差し掛かり、下校時刻に迫っている。部活のある生徒には下校時刻は関係ないのだが、試験間近であるため部活動は活動停止中である。
よって、生徒は早急に帰宅しなくてはならない。
「っと、もうこんな時間……作業終了、本日は解散です!」
園芸委員担当の教員の声に、琴音を含めた生徒達は用具を片付け始める。
「琴音、一緒に帰ろうよ」
クラスメイトの女子生徒が誘って来る。
「うん……あっ!?」
祖母にこれから帰宅する旨を伝えようと、携帯を取り出そうとした時、琴音は気付いた。
ポケットに入っている筈の携帯電話が、無い。
「ごめん、教室に携帯忘れてきちゃったみたい。取ってくるから、先に帰ってて」
「え、でも琴音……」
「大丈夫、早く帰って試験勉強しなきゃならないでしょ? 構わないで」
友人に手を振りつつ、琴音は駆け足で校内へと戻った。
試験期間故に部活動が禁止なので、校内には人の気配が全くなかった。廊下でランニングをする足音も、威勢の良い掛け声も聞こえない。
いつもの放課後とは違い、静寂に包まれた校内――どことなく、不気味な雰囲気だった。
「あった……」
誰も居ない教室に入り、琴音は自身の机の中から携帯電話を取り出す。
携帯電話を回収するという目的を達し、彼女は直ぐに教室を出て行こうとする、その時一つの机が目に留まった。
他でもない、一月の座席だ。
「……いっちぃ」
彼の名前を口にすると同時に、罪悪感が琴音を覆い包み始める。
思い出してみれば、一月は今日琴音に話し掛けようとも、近付いて来ようとすらもしなかった。
何もかも、自分自身が招いた事だった。
悲しみに暮れる彼を、元気付けてあげたい――そんな独り善がりで半端な想いで彼を傷つけ、そして汚い言葉を投げ付けた。どれだけ後悔しても、後悔しきれなかった。
「どう、して……」
琴音の両目に、涙が溜まり始める。
どうして、彼の気持ちを考えなかったのだろうか。どうして、あんな事を言ってしまったのだろうか。
「っ……!」
本当は、彼が大好きなのに。
静けさに包まれた教室内に、琴音の嗚咽の声が発せられ始める。
自分の事が大嫌いになりそうだった。彼を傷つけて、彼と共に過ごした日々を台無しにした自分自身の事が。
ただ、独りきりで涙を流す事。それが、今の琴音に出来る全てだった。
どれくらいの時が過ぎたのだろうか、
「……!?」
琴音は、自身の後ろから何かを感じた。恐ろしく冷たい何かを。
振り返る。そして彼女は、驚愕する。
人の形をした、無数の黒い霧のような物体が、教室内で蠢いていたのだ。
《お前の命ヲ……寄越セ……》
黒い霧が、ゆっくりと琴音に向かって近付いてくる。
「ひっ……!?」
引きつる様な声を上げて、琴音は後ろへ下がる。
するといつの間にか、彼女の後ろにも黒い霧のような物体があった。
《お姉ちゃん……お姉ちゃんノ命……僕達二頂戴……?》
黒い霧が微かに頬に触れる――嫌な臭いと感触が、琴音を襲う。
「いっ、嫌! やだあああああっ!」
何が起こっているのか、あの黒い霧は一体何なのか。
しかし琴音には考えている余裕など無かった、逃げなければ殺される――琴音は、一目散に駆け出した。
机から回収したばかりの携帯電話がポケットから滑り落ちる、しかしそんな事を気に留める余裕は無かった。
《待ってヨ……僕達ノ所へおいでよお……》
離れているはずなのに、その声ははっきりと届いてくる。耳を塞ぐようにして、琴音は走る。
(何なの……!? 何なのあれ……!)
考えてみても、琴音には分からない。
人の形をした黒い霧、頭の中に直接届くような気味の悪い声……まるで悪夢だった。
しかしどれだけ願っても醒めてくれない事から、もう現実だと受け入れる以外の道は無かった。
「誰か……誰かーっ!」
誰にともなく助けを求める。
しかし、誰からも返事は無い。琴音に与えられるのは、無情な沈黙だけだ。
《だあーれモ、来なイよ?》
振り返った瞬間だった、琴音の体を黒い霧が覆い包んだのだ。
「んぐっ!」
苦しみに目を見開く琴音、その眼前で黒い霧が蠢き、彼女を囲んでいく。
《ずっと待ってたンだあ。お姉ちゃんが沢山悲しんで、お姉ちゃんの力が弱まるこの瞬間ヲね……》
「ううっ!」
黒い霧が、琴音の首や腕に絡み付く。不快な感触に吐きそうになりつつも、琴音は黒い霧を睨み付けた。
恐怖や困惑とは違う感情が、琴音の中に生まれ始めていた。それは、怒り。
自分をこんな目に遭わせる得体の知れない存在への、怒りだ。
「何なの……!? どうしてこんな事……!」
《核が必要ナのさ。そう、お姉ちゃんみたいに強い霊力を持った人間ノ魂がね……》
黒い霧が、口の中に入り込む――咽る事すらも出来ず、琴音はただ呻くような声を発するだけだ。
《大丈夫……お姉ちゃんは消えナい。僕達と一緒になルのさ。『鬼』の一部としてね……》
「ううっ! ぐっ……鬼……!?」
突然出された単語に、琴音は問う。
次の瞬間、黒霧がまるでロープを張るかのように強く、琴音の首を締め上げた。
「うぐっ! ぐ……!」
苦しい、苦しい、苦しい苦しい苦しい――!
自身の首を捕らえる黒霧をほどこうと、琴音は無我夢中で首を掻き毟る。だが彼女の指はただ、琴音自身の皮膚を傷付け、血を滲ませるだけだ。
そして、残忍な言葉が投げ付けられる。
《そう……だから、さっさと死んじゃいナよ》
次の瞬間、感じた事も無い痛みが琴音の腹部を突き抜けた。
視線を下へ向ける、黒い霧が腹部に食い込んでいる。否、食い込んでいるだけに留まらず、腹部から背中を貫いていた。
腹部が制服ごと大きく裂け、赤く生暖かい液体が噴き出ていた。
「う……あ、あ……!」
血の味が広がったと思った瞬間、琴音の口から鮮血が溢れ出る。同時に、彼女の首を捕らえていた黒霧が消失した。
両足から力が抜け、琴音はその場に倒れた。晒された彼女の腹部に、立て続けに黒霧が突き立てられる。
「うっ! ……ぶっ……」
自分の腹部が切り裂かれ、滅茶苦茶にされていく――もう痛いという段階を超え、ただひたすらに苦しかった。
溢れ出た涙で視界が滲む、血液と共に、命が流れ出ていくのを感じる。
「っ! う……」
薄れていく意識、琴音は口内に充満する血液に弱々しく咳き込みつつ、絞り出した。
「い……っ、ち……ぃ……」
――『いっちぃ』。
それが、秋崎琴音の最後の言葉だった。
そして彼女は、赤い水溜りにその身を埋めながら――ただ一度の人生を終えた。自分自身の身が荒らされていく感覚を、琴音は命を失うその瞬間まで感じていた。