其ノ九 ~終ワル幸福~
中学校に進学してから、一月の過ごす日々は少しだけ変わった。
学校に行き、放課後には剣道部の活動に精を出す。部活が休みの時、また暇な時は剣道場へ赴き、自主的に稽古に励む。
師事した当初から黛は変わらず優しかったし、そしていつも隣には彼女が、琴音が居た。
何よりも変わったのは、少しだけ賑やかさが薄れたように感じる事だろう。その理由はもう分かっていた。出間蓮が、居なくなったからだ。
そして、何時の頃からだっただろうか、一月は自身が琴音を好きになっていた事に気付く。
優しくて、ひた向きで、何事にも一生懸命な彼女に、友達以上の感情を抱くようになっていたのだ。
けれど一月は、その想いを彼女に伝えようとはしなかった。今はまだ友達という関係でいい、彼女の側に居られるだけで十分だと思ったから。
彼は抱いた想いを胸に仕舞い、彼女と並べるような、彼女の隣に居ても恥ずかしくない程の強さを持つ人間になろうと努力していた。
そして、この時がずっと続いて欲しい――琴音が側に居て、彼女と共に剣道に励み、彼女の笑顔を間近で見られる日々が、いつまでも終わらないで欲しいと思っていた。
あんな終わり方を迎えるとは、考えもせずに。
◎ ◎ ◎
一月の父が亡くなった――それは、突然の知らせだった。
家を建てるだけでなく、日曜大工として招かれたり、雨漏りを直したりなど――大工としての仕事に信念を持ち、村へ多大な貢献を残した一月の父親が、建設中の不慮の事故によって、帰らぬ人となってしまったのだ。
村人から感謝され、敬愛されていた父を、一月はとても尊敬していた。
その父の不幸を知った時、初めに一月を捕らえたのは困惑。続いて訪れたのは、悲しみだった。
「うっ……!」
父の葬儀が終わり、一月は公民館の入口の側で、片手で顔を覆っていた。その頬には涙が伝っている。
周囲には沢山の人――式の参列者が居て、喧騒ざわめいている。
その時、一月は自身に駆け寄ってくる気配を感じた。ほぼ同時に、聞き慣れた少女の声が届く。
「いっちぃ……」
一月は振り返る。涙で潤んだ瞳に、制服姿の琴音の姿が映った。
「お父さんの事……残念だったね……」
「…………」
一月は返事をせず、彼女から視線を外す。
公民館前の庭の片隅で、中学の制服姿の少年と少女は佇んでいた。悲しげに吹いた風が、二人の髪や制服を小さく靡かせる。
「気持ちは分かるけど、気を落とさないで……」
「気持ちが分かるとか、軽々しく言うな!」
声を荒げながら、一月は再び琴音に視線を移していた。
彼女に向けてこのような言葉を発したのは、恐らく初めてだっただろう。
「……!」
琴音の面持ちが、悲しげな色を帯びる。
我に返る一月。
「今の僕の気持ちは、誰にも分かる訳無い……!」
まるで、絞り出すように発する一月。
「そんな事ない、私にだって!」
胸元で拳を握りつつ、琴音は悲痛な声を発してくる。
一月には分かる。琴音はせめて少しでも、父親を失った一月の力になりたかったのだ。彼女はただ、それだけのつもりだったのだ。
しかし一月は、彼女に言葉を繋ぐ余裕を与えずに遮った。
止めなければいけない。このままでは取り返しのつかないことになる――分かってはいたものの、父親を失った悲しみが渦巻き、歯止めが効かなくなっていた。
「いいや、君には分からない!」
そして一月は――投げつけてしまった。
絶対に言ってはいけないその言葉を。
何よりも琴音の心を抉る、言葉という名の刃物を。
「だって君にはもう、お母さんもお父さんも居ないじゃないか!」
言ってしまった直後に、一月は我に返った。
しかし、そんな行為は無意味に等しい。一度放った言葉は戻らないし、取り消すことも出来ない。
「……どうして?」
琴音の両目に溜まっていた涙の一滴が、頬を伝って滴り落ちる。
「どうして、そんなこと言うの……?」
「あ……!」
琴音に対して、両親の話は『禁句』だったのだ。
幼い頃に両親を失い、祖母の家で暮らしていた彼女は、一月よりも遥かに両親との思い出が少ないのだから。
「ひどいよいっちぃ……! 私だってもっと、お父さんとお母さんと一緒に居たかった、もっと楽しい思い出作りたかった、もっとお話ししたかった……! それなのに……!」
震える様な涙声と共に、琴音は両手で顔を覆う。
罪悪感が自身の中に湧き出るのを、一月は感じる。
もう、先程までの権幕は一月には無かった。謝らなければ、という考えが浮かぶ。
「琴音、ごめ……!」
琴音に向けて、一月は恐る恐る手を伸ばす。
しかし次の瞬間。彼はその手に痛み、そして熱を感じていた。琴音がまるで拒むかのように、自分の手を思い切り払ったのだ。
そして琴音の視線が、一月を射抜いていた。彼女の目は、絶望の涙で濡れていた。
「いっちぃのバカ! 私の気持ちなんて何も知らないくせに!」
両手の拳を握り、涙声を張り上げる琴音。彼女の瞳から、また一滴の涙が落ちる。
「大っ嫌い!」
踵を返して、琴音は走り去っていく。
その後ろ姿に手を伸ばす――しかし一月には、それ以上の事は出来なかった。
謝る事も、引き留める事すらも叶わなかったのだ。
◎ ◎ ◎
自宅に戻った琴音は、自室の扉に背中を預けていた。
「……」
落ち着きを取り戻した琴音は、自身が一月に向けて放った言葉を考えていた。
帰った時はもう、彼女の涙は渇いていた。しかし、再び――彼女の両目に、涙が溜まり始める。
今度の涙は、一月への怒りではない。彼への罪悪感だ。
「そうだよね。悪いのは、全部……」
琴音は椅子に座り、机に向かう。
そして、引出しから灰色の日記帳を取り出した。
彼女は真っ白なページを開き、そこにシャープペンシルを走らせていく。
二○××年、九月二十三日。
今日、いっちぃとケンカをした。
彼とこんな風にケンカをしたことは、今まで一度も無かったと思う。
いっちぃ、ひどい事言ってごめんね……いっちぃの事励まそうと思ったんだけど、私、余計な事しちゃった。
お父さんが亡くなって悲しんでる時にあんな無神経な事言われたら、いくら優しいいっちぃだって怒るに決まってるよね。
それなのに私、謝りもしないで逆ギレみたいなことして、いっちぃにバカとか大っ嫌いだとか、最低な事言っちゃった……。
何年も前からの大切な友達なのに、私が意地張った所為で深く傷付けちゃった……。
ごめんねいっちぃ、本当にごめん……。
謝っても許してくれるか分からないけど、明日ちゃんといっちぃに謝ろうと思う。
許してくれなくても、それでも謝る。
もしも許してくれたのなら、もう一度いっちぃと一緒に剣道に励んで……。
そして昔みたく彼と一緒に、笑い合いたい。
「っ、うっ……」
彼女の瞳から落ちた涙が日記帳に落ち、紙に吸い込まれていく。
琴音にとって、悪いのは自分自身に他ならなかった。一月の気持ちを考える事もせず、中途半端な気持ちで彼に声をかけ、それが一月を傷つける結果に繋がった。
「いっちぃ、ごめんね……!」
両手で顔を覆う琴音。
――その彼女の後ろで、黒い霧のようなものが蠢いていた。