其ノ八 ~背中に捧ぐ~
「俺だって剣道続けたいさ、それに……一月とも琴音とも、もっと一緒に居たいよ」
「それなら、どうして……?」
蓮の本音を彼の口から聞き、一月は嬉しさ以上に疑問が勝る。
剣道を続けたいという蓮の言葉に、嘘偽りは感じられない。ならば、何故――。
「しなきゃいけねえ事があるんだ。どうしても……」
蓮の言葉には固い決意が籠っていて、反論の余地が無かった。
彼には彼の都合がある、無作為に詮索するのは気が引けたし、した所で蓮が決めた事は覆らないだろう。
同門として、友達として。一月が彼に贈るべき言葉は一つだった。
「分かったよ蓮。君がそう決めたのなら」
「……ありがとな一月、今まで色々と」
蓮が差し出してきた片手を、一月は取った。ざらざらとした掌の感触が伝わってくる。
手を離すと、蓮は琴音に視線を移した。
「っ、ぐすっ……」
琴音は両手で顔を覆い、嗚咽を発している。
蓮は、彼女の右肩に触れた。
「……!」
その手の感触に気付いたのだろう、琴音は顔を上げる。涙に濡れたその瞳が、蓮と合わさる。
「蓮……」
消え行ってしまいそうな声で、琴音は呟く。
蓮はそんな彼女を見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「ありがとう」
蓮が琴音に紡いだのは、ありふれた感謝の言葉。
けれど、彼が琴音にそう言ったのを、一月はこれまで見たことが無かった。蓮は琴音に対して、いつも素直でなく、へそ曲がりな態度ばかりを見せていたから。
だが、一月は看破していた。本当の蓮は優しいのだ、優しくて素直で、それでいて不器用なのだ。
そんな彼の『内面』を見るのは、これが最初であり、同時に最後なのかもしれない。
「私こそ……蓮、ありがとう。今まで……!」
涙と共に発せられる琴音の言葉に、蓮は数度頷いた。
彼は琴音の右肩に接していた手を離して、視線を下げる。そして目を閉じ、悲しげな表情を醸す。一月には、蓮が琴音の言葉を忘れないよう、胸に刻み込んでいるようにも見えた。
深く息を吸い、
「じゃあな、二人とも」
そう言い残して、蓮は修剣道場の入口へと歩を進め始める。
彼の背中を、一月は呼び止めた。
「蓮!」
足を止めた蓮、彼の背中に向かって一月は言う。親友への、恐らく最後の言葉を。
「君に会えて良かった。蓮の事、僕は絶対に忘れない……!」
後に続くように、琴音も呼び掛ける。
「蓮、私も忘れない。あなたの事、ずっと……ずっと……!」
蓮は足を止めたまま、振り返ろうとしなかった。振り返ろうとも、返事をしようともしなかった。
けれど彼から、微かに鼻を啜るような音が一月の耳に届く。
そして、蓮の足元に一粒の雫が落ちる。静かな道場には、その音がはっきりと届き渡った。
蓮が、泣いている。顔が見えなくても、一月にはそれが分かる。
「……」
蓮は一月と琴音に背を向けたまま、手を振る。
そして、彼はそれ以上何も言う事も、する事も無く――剣道場を去って行った。