13
……ねぇ、由比。由比は自分の名前の意味、知ってる?
優しい、暖かな声。
それに苦笑しながら答える。
――意味なんてわかんないよ。普通“ゆい”なら結衣とか唯とか、そういう漢字だよね。どうして由比って書くの?
私が聞きたいくらいなんだけど、おかーさん。
……元々結ぶで“結”にしようとしてたんだよ。上条 結。結構いい名前だろ? “ゆい”にはな、「共同作業」って意味があるんだ。
深く柔らかいその声音に、耳を傾ける。
――共同作業? ゆい、に? どういうこと、おとーさん。
……昔はな、例えば田んぼを作るにしても屋根を葺き直すにしても、その家族だけじゃ人員も労力も足りなかった。
それを皆で助け合って共同で作業をする為の集まりの事を“ゆい”って言ったんだ。
――うーんと? 要するに、ご近所づきあいってこと?
……まぁ簡単に言えば。でも、“結い”は助けるだけじゃない。
やってくれた対価として自分も相手を手伝う。今でいう、ギブ&テイクだな。
――せちがらい……
……無償の行為、有償の行為。確かに無償の方がいいように思えるけれど、俺はそうは思わない。
やってもらうだけじゃない、出来る事で相手を助ける。……皆で助け合って皆で幸せになる。
これが一番いい人間関係だと思うけどなぁ、とーさんは。
――難しい……
顔を顰めてぼそりと呟くと、困ったようにおとーさんは笑って、おかーさんに脇をひじでつつかれていた。
……歴史バカなんだから。要するにね、大変な事は皆で助け合っていきましょうっていう集まりをね、昔は“ゆい”っていってたの。だから、由比には“人を助けて人に助けてもらえる、思い遣りを持って行動のできる子”に育って欲しくて“由比”とつけたのよ。
――なら、“結”にすればよかったでしょ?
そう言うと、まぁなーとおとーさんが腕を組みながら頷いた。
……そうしようとも思ったんだけど、俺は由比ヶ浜が好きでなぁ
――要するに、歴史なんじゃん
意味とか関係なく。
すると少し慌てたおとーさんは、気恥ずかしそうに首の後ろを摩りながらそっぽを向いてしまった。
……あのね、由比
その姿を半目で見ていた私に、おかーさんがこそっと耳元に口を寄せる。
……私とお父さんが初めて出会った場所が、由比ヶ浜だったからなのよ
くすっと笑うおかーさん。
ますます照れた様に顔を赤くするおとーさん。
思わず二人を見上げた私は、ニヤニヤと笑う。
――顔に似合わず、ロマンチスト
おとーさんは、開き直ったようになぜか拳を振り上げる。
……なんだとーっ、いいじゃないか! ロマンチスト最高!
その姿を呆れたように見上げたおかーさんは、溜息をついて肩を竦めた。
……何、開き直ってるのよ。ヘタレロマンチスト。
――そうだそうだー、ヘタレとーさん!
……ちょっと待て! なんか、内容が変わってるぞ!
振り上げた拳をぐるぐる回しながら、おとーさんが私を威嚇する。
面白くて楽しくて、へたれへたれと連呼しながら駆け回る私。
追いかけるおとーさん。
笑いながら囃し立てる、おかーさん。
幸せな、とても幸せな――
「……おか……さ……、おと……さん」
暖かい日差しの中、私は幸せな夢に浸っていた――
その頃圭介は、割り振られていた校内の見回りの為、もう一人の教師と校舎内を歩いていた。
隣を歩くもう一人の教師は、さっきからぶつぶつと文句を言っていて。
表情は変えずにいたが、内心、いつまで文句を言ってるのかなぁとぼやっと考えていた。
「遠野先生。絶対何かの陰謀だと思いませんか?」
その声に視線を向けると、隣を歩く溝口の恨めしそうな表情が圭介を見下ろす。
「午前中も見回りしたのに、何で午後まで回ってくるんでしょう。陰謀? それとも、俺って嫌われてる?」
人に問いかけておきながら自己完結しているらしく、溜息ばかりその口から漏れている。
私も井田先生の方がよかったんですが、そんな事を考えながら圭介は視線を前に戻す。
本来はもう一人の社会科教師、井田と一緒に回るはずだったのだが、井田の担当している部活の方でトラブルがあったらしくたまたま職員室にいた溝口に代わりの白羽の矢が立ったのだ。
午前中も見回り当番だった溝口の落胆は激しく、さっきからずっと文句ばかりぶつぶつ呟いている。
「午前中見回りして午後から遊ぶぞー! とか思ってたのに、また二時間拘束ですよ。ありえねぇ。誰だよ茶道部でトラブル起こしたの。シメる、マジシメる」
口調が変わっている溝口に苦笑しつつ、見回りを続ける。
見回りと言っても各クラスを覗いたり、人目に付かない場所を見回ったり。特別教室への侵入がないか確認したりと、そこまで大変なものではない。
まぁ教師が見回りをしている事を周知させる意味合いのほうが、強いのではないだろうか。
どんなに文句を言っても微笑と相槌しか返って来ないことに溝口は腹を立てたのか、ニヤリと嫌な笑みを浮かべて階段を上がる圭介に後ろから声を掛けた。
「遠野先生だって残念でしょう。来てるんでしょう? 弁当の彼女」
圭介は溝口が何を言おうとしているのかに気がついて、何がですか? とそらと呆ける。
すると余計面白く感じたのか、一層笑みを深めて溝口が口を開いた。
「さっき学生から、ゆいって子が来てるって聞きましたけど? まさか高校生とは思わなかったですけどねぇ」
ぱたぱたとサンダルの音を響かせながら階段を上がっていた圭介は、足を止めて溝口を振り返った。
その顔はいつも通りの変わらない笑顔で。
ひやかされた事を怒るのかなぁと、内心面白がって見返した。
でも――
「溝口先生に、呼び捨てされる覚えはありませんが?」
……怖ぇぇっ! つーか、つっこみどこはそこかよ!
眼鏡の奥の笑っていない冷たい視線に、溝口はへらへらしていた顔をさらしたまま動きが固まり、背に冷たいものが流れた。
いつも見下ろす立場にいる溝口は、圭介に冷たく見下ろされるというのはこんなにも怖いのかと一瞬で悟る。
そして……
「すみませんっ! さぁ、見回り続けましょうか!」
……全力で階段を駆け上った。
そして、全力で圭介の視線から逃げた。
その後姿を見上げながら圭介は一度目を瞑って気持ちを切り替えると、大きな身体をして気が小さいなぁこの人、と聞かれていたら溝口が確実に落ち込むような事を考えていた。