圭介・1
「おはようございます、遠野先生」
「おはようございます」
職員室の自分の席に座りながら、隣の溝口に挨拶を返した。
圭介はスーツの上着のボタンを外しながら、手帳を鞄から出す。
「遅かったですね、今日は。遅刻でもするのかと思いましたよ」
溝口はジャージの袖を捲くりながら、珍しそうに圭介を見る。
圭介は鞄を手にしたまま、溝口に答えた。
「えぇ、少し用があって。間に合ってよかったです」
「用ですか。あぁ、そういえば弁当の彼女は、学祭に誘えたんですか?」
そう言ってひょいっと圭介の鞄を覗き込んだ溝口は、あれ? とでも言うように首を傾げた。
「今日は弁当なしですか?」
言われて、そういえば貰ってないなと気付いた圭介は、それでも表情は変えずに頷いて鞄を足元にしまう。
「いつも頂けるわけではありませんから」
「そうなんですか? 持ってくるようになってから、一日も欠かしたことがなかったのに。あー、けんかでもしました?」
不思議そうだった溝口の顔がニヤついたもに変わったのを見て、圭介は手帳に目を落とすと今日のページを開いた。
「してはいないですよ、喧嘩なんて」
そう言った圭介の顔は穏やかなはずなのにとても冷たく、溝口は肩を竦めて会話を止めた。
月曜日ということもあっていつもより長い時間掛かった朝礼を終え、圭介は準備室に移動した。
ここは社会科科目を受け持つ教師が使っている部屋で、圭介以外にも世界史・日本史担当教師が机を並べている。
地理や倫理の教師は資料室を挟んだ、隣の準備室を使っている。
今日は圭介以外は一時間目から授業があるらしく、誰もいなかった。
準備室にいるか職員室にいるかは各々の仕事や都合にもよって違うから、ただ単にいないだけなのかもしれないが。
圭介は自分の席に腰を降ろすと、上着から携帯を取り出して机に置く。
そして二時間目にある三年の授業の用意をしようと、机の引き出しを開けた。
「……」
引き出しを開けたまま、目に入ってきた紙切れに体の動きを止めた。
溝口の冷やかしが脳裏に甦って、思わず眉を顰める。
指先でそれをつまみあげると、身体を起こしながら引き出しを閉めた。
目と同じ高さにそれを持ち上げて、反対の腕で頬杖をつく。
午前中の明るい日差しに、チープな手作りの学祭のチケットが晒される。
それをしばらく見てから、圭介は机の上に放った。
ひらりと、机の上に落ちる今はもう必要の無い紙切れ。
そのまま背もたれに体重を預けて、背を逸らす。
天井を見上げて両腕を伸ばすと、それを下ろすと共に息を吐き出した。
由比に渡すつもりだった、学祭のチケット。
溝口に言われたからではないが、由比の気分転換にでもなればと用意したもの。
もう、用無しとなってしまったけれど。
自分が渡す前に、翔太が由比を誘ってしまったから。
しかも、一緒にまわるらしいことを翔太は言っていた。
驚かせたいから、クラスの出し物を秘密にしたいと楽しそうに言っていた。
楽しそうに……
机の上の、チケットに視線を移す。
楽しそうに……
そして――
手を伸ばしてチケットを手に取ると、くしゃりと握りつぶしてそれをゴミ箱に放った。
軽い音を立てて、足元のゴミ箱にそれが落ちる。
楽しそうに……
そして――
俺の反応を、窺うように。
ごみを放った手で、机の上の携帯を手に取る。
ボタンをいくつか操作して、昨日翔太から送られたメールを表示させた。
土曜日、由比を誘って道の駅に行ったのは、あまりにも様子がおかしかった彼女の気分転換になればと思ったから。
けれどそうであるならば、翔太のいる日曜日に行ってもよかった。
ある意味、その方が翔太にとってはよかっただろう。
けれど実際は翔太がクラスの用事で出かけた後、彼女と二人で出かけた。
きっかけは、偶然ベランダで聞いた彼女の独り言だったにしても、きっと買い物なり何なり理由をつけて連れ出していただろう。
どうしても、由比の悩みを取り除いてやりたかった。
由比のためと言うよりも、半分以上、自分の為に。
苦しむ彼女の姿を見ていたくなかった。
悲しむ彼女の姿を見ていたくなかった。
それ以上に――
誰かのことで悩む彼女を、見ていたくなかったから。
だから詰め寄ってしまったし、泣かせてしまうほど追い詰めた。
けれどそのおかげで、彼女の感情を見ることができた。
いつも、笑顔に隠している“何かの感情”の欠片を。
彼女は、俺の言葉から翔太の背景に気付いた。
それほど、他人の言葉や感情に敏いところがあるんだと思う。
似てる、と思った。
誰に――?
――それは……、翔太に