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「おはよう、由比さん」
「……おはよーございます」
翌朝、こっそりとアパートから出て行こうとした挙動不審な私は、表道路に出た直後、とっても優しくとってもほんわか……なはずなのに、冷や汗が背中を伝いそうになるくらい恐ろしい笑顔と対面しました。
路肩に車を止めてそれに寄りかかるようにしていた圭介さんは、にっこりと笑みを湛えたまま助手席のドアを開けた。
「どうぞ?」
「……」
どどど、どうぞと言われても。
なにやらいたって普通な助手席が、牢獄の特等席のように見えるのは私だけですか?
何も言えずに固まっていた私は、ダメ押しのような圭介さんの笑顔にロボットのようなぎこちない動きで、助手席に乗り込んだ。
圭介さんはドアを閉めると、運転席に回りこんでそこに座る。
バタンと閉められたドアの音が、裁判官の鳴らす“カンカン”て木槌みたいな音に重なるのは気のせいですか?
エンジンを掛けた車が、静かに走り出した。
「何をこそこそしていたのかな?」
静かな空間を破ったのは、静かな圭介さんの声でした。
「こっ、こそこそなんて。そんな」
あはははは、と軽く笑うと、前を向く圭介さんから威圧オーラが流れてくる。
「何をこそこそしていたのかな、由比さん」
名前を追加されただけで、怖いんですけどー。
誤魔化すのを諦めて、逆切れのような開き直った気持ちで息を盛大に吐き出した。
「だって、圭介さん怖いんだもの」
「私が、怖い?」
「うん、怖い」
疑問系や断定のイントネーションはあるけれど、抑揚のない静かな声音に思いっきり頭を縦に降る。
「あんなに怒らなくてもいいのに」
ぼそっと呟いた声は、圭介さんの溜息に消されました。
「悪かったよ、少し感情的になりすぎた。私も別に二人を押さえつけたいわけじゃないから、許してもらえないかな」
そう、昨日。
翔太を部屋に上げて圭介さんを、食事に呼び出した後。
部屋に飛び込んできた圭介さんは、物凄い必死な表情をしていて。
思わず翔太と大爆笑してしまったわけで。
私達の姿にぽかんと呆けた圭介さんは状況を把握すると、満面の笑みに戻った。
おっそろしく冷たい、怒りの笑みに。
それはそう、さっき朝に私を待ち伏せしていた時のような笑顔。
「どういうことだ、翔太」
静かに言い放つその声に、ようやく私達は笑い声を納めた。
というか、ひやりとした雰囲気に黙ったという方が正しい。
けれど翔太は慣れているのか、頬杖をついたまま圭介さんを見上げて首を傾げた。
「メールの通りだけど」
「メールの通りって……」
少し眉を顰めた状態で、私に視線を移す。
その表情に、ぴしっと背筋を伸ばしてしまった私はどれだけへたれ子さんなんでしょうか。
「由比さん、本当に? どうしてそんな事……」
本当にって……
翔太がどういった文面でメールを送ったのかわからないけど、こうやって圭介さんが来たってことは内容は伝わっているはずで……
ゆっくりと頷くと、少し放心したように片手で口元を押さえた。
「別に隣なんだから、そこまで……。いや、その前に本当に?」
隣だからそこまで? その言葉に首を傾げつつも、しつこく“本当に?”を繰り返す圭介さんに口を開く。
「隣だからこそ、なんじゃないかなって。だから本当ですよ」
伝わってるからこそ圭介さんは怒っていて、うちに来たんじゃないの?
無防備だー無防備だーって。
翔太や圭介さん相手に、そんな失礼なこと考えませんよ。
圭介さんは力が抜けたように、テーブルに片手を置いて寄りかかる。
私は焼いていた出汁巻きを皿に取り出すと、テーブルに置いた。
「やっぱりダメ? 自分ちの台所の方が使いやすいんだけど。いちいちご飯作って隣にもって行く方が、面倒」
あえて言うなら、今日だけじゃなくずっとご飯はうちで食べて欲しいくらい。
「もう二人にも慣れたし、二人も私に慣れてくれないかなぁ。洗い物とかレパートリーとか考えると、そのほうが楽なんだけどなぁ」
「……え?」
少し呆然としていた圭介さんは、私の言葉に短く反応した。
「二人?」
え、疑問そこ?
オーブントースターからたらこを出して、お味噌汁を温める。
味噌を入れた後の味噌汁を温めるときは、傍にいないとね。
突沸したりするからね。
くるくるとお玉でそれをかき混ぜながら、温まってきた味噌汁にたまごを三つ落とす。
半熟加減で食べるのが、一番おいしいのよねぇ。
沸騰直前で火を止めると、黙ったままの圭介さんを振り返る。
そういえば、返答してなかった。
客用の箸を取り出してテーブルに置くと、そこに立ったままの圭介さんを見上げた。
「二人ですよ。他に人上げようにもスペースないし、他に人いないし。圭介さんもその方が楽でしょ? 予定あわせておけば、ご飯を炊くところから私やれるし」
おぉ、口に出したら凄くいい考えじゃない?
一人だから、炊飯器で炊くよりも電子レンジで専用おわんで米を炊く方が多い私。
なんか、二合とか三合とか炊きたいのよね。
やっぱり、なんとなく量を炊いた方がおいしそうだしさぁ。
「え、と。あれ?」
圭介さんは混乱したようにぶつぶつと口を動かした後、ゆっくりと翔太を見下ろした。
「……少し、外に来い」
「……」
言われた相手は翔太だというのに、いきなり低くなった声に私の方がびくっと震えた。
それに気付いた圭介さんが口元を緩めて、にこりと笑う。
「すぐに戻るから、ちょっとごめんね?」
ハテナマークをつけながらも、断定だよねその口調。
面倒くさい~っとぶつぶつ言う翔太の首根っこを持って引きずりながら、圭介さんは廊下へと出て行った。
しばし呆然としてしまった私は、玄関のドアが閉まる音に我に返って体から力を抜いた。
「翔太、余計なことをメールに書いたんだね。きっと」
何を書いたのか知らないけど、圭介さんのあの剣幕を見ると、ふざけてからかったに違いない。
自業自得だね、私はそんなことを考えながらご飯の支度を再開した。
――が
その後戻ってきた圭介さんに、小言を喰らったわけです。
まぁ、食事は普通に楽しく終えましたけどね。
その後はじめて二人だけになるので、気まずいなぁと……会わないうちに会社に行っちゃえとか思ったわけですよ。
掴まりましたが。
私の行動を見越して表道路で待ってるなんて、流石先生は察しがいい。
先生関係ないか(涙
「まぁ、圭介さんが心配してくれているのは分かるから、許すも許さないもないんだけど。でも、別にいいでしょ? うちでご飯食べても」
昨日はうやむやにされてしまったから、今日ちゃんと返事をもらおう。
圭介さんは前を向いたまま、小さく唸る。
「どうして、由比さんはそこまでこだわるの? そりゃ、私達にとってはありがたい申し出だけど、由比さんにとってのメリットがよく分からない」
「……メリットって」
なにその言い方。某シャンプーじゃあるまいし。
「別に、メリットがあるから圭介さん達とご近所づきあいしているわけじゃないんだけど」
前を向く圭介さんの横顔を睨みつけると、焦ったような表情を浮かべて車を路肩に停めた。
「え、圭介さ……?」
サイドブレーキを掛ける圭介さんを不思議そうに呼ぶと、エンジンを切って私に向き直った。
「ごめん、今のは失言だった。メリット・デメリットで由比さんが行動するような人だとは思ってない。本当にごめん」
そのまま、がばりと頭を下げる。
その行動に驚いて思わず両手を差し出してしまった私は、手の上にのった圭介さんの額を押し上げて顔を上げさせた。
「こっちこそ、ごめんなさい。心配してくれることをありがたく思わなきゃいけないのに」
そう言うと、ほっとしたように目じりを下げた。
「いや、私のほうこそ押し付けになってしまって。……由比さん、少し時間大丈夫?」
車の備え付けのデジタル時計を見て、圭介さんの言葉に頷く。
するとシートベルトを外して、圭介さんは再び私を見た。
「一緒に食事をしようって言う、その理由を聞いてもいい?」
その声音は、決して怖いものではなく純粋に理由を知りたいという問いかけで。
一瞬逡巡した後、口を開く。
「作るのが、楽だから」
「……」
言い切った私を、じっと圭介さんが見つめてくる。
逸らせば今の言葉が嘘だと、ばれてしまう。
圭介さんは、何も言わない。
きっと傍から見れば、見詰め合ってる男女だよね。
実際は、駆け引き状態なんだけど。
「由比さん」
圭介さんは他には何も言わず、ただ私の名前を呼ぶ。
「何?」
「由比さん」
すぐに返答すれば、やはり口にするのは名前だけ。
そこに込められているのは。
“本当の理由は?”
それだ。