26
自分たちの部屋の玄関を開けると、圭介は翔太を先に入れてその後から上がった。
持っていた鞄を隅において上着を椅子に掛けた翔太は、冷蔵庫に手を伸ばす。
「いやー、疲れたわ。でも、ほとんど準備できた」
「へぇ? 早いな」
麦茶をグラスに入れて、冷蔵庫を閉めながら肩を竦めた。
「準備って言っても、女子がメインだから。俺らは言われたことをやるだけ」
「まぁ、そんなものだよ。怒らせちゃいけない」
おどけたように笑うと、圭介は洗濯物を取り込むのだろう。ベランダへと歩いていく。
その後姿を見送って、翔太は台所の椅子に腰掛けた。
麦茶を一口飲んで、ふぅ、と息を吐き出す。
少し前。
帰宅した翔太の耳に入ったのは、由比の部屋から聞こえてくる泣き声。
慌てて由比の部屋のドアを開けようとノブに手を伸ばした翔太は、泣き声の合間に聞こえてきた男の声に動きを止めた。
耳を澄ましてみると、それは圭介の声で。
宥めるように何か言っていた。
伸ばした手を、ゆっくりと引っ込めて立ち尽くす。
自分の知らない間に、何があったのか。
懸命に考えても、浮かぶわけがない。
けれど、由比が泣いている。
圭介のそばで。
ただ、立ち尽くすしかなかった。
部屋に戻ればいいと、頭の中では分かっているのに。
圭介に心を許すように泣いている由比の声を、聞いているのがつらいのに。
けれど、そこを離れることが出来なかった。
しばらくして、泣き声がやんで。
目の前のドアが開いた時に逃げようかどうしようか考えたけれど、少しだけ開いたそれはそれ以上開くこともなく。
中の声が聞こえてきた。
「圭介さんって、凄く優しくて、話もちゃんと聞いてくれて、先生だからかすこーし過保護すぎるけど頼りがいがあって」
由比の、声。
凄く嬉しそうに、楽しそうに話す言葉。
圭介への、賛辞。
過去にも違う場面でよく聞いたその言葉に、背筋にひやりと汗が流れる。
由比、も?
由比も、圭介が……
「やっぱりおにーちゃんていいなぁって。隣に越してきてくれて、私的すっごいラッキー」
ぎゅっと握り締めた拳が、思っても見なかった由比の言葉にふっと緩んだ。
同じ様に、顰めていた顔からも強張りが抜ける。
おにいちゃん? と、ぎこちなく聞き返す圭介の声に、再びどくりと鼓動が早まったけれど。
翔太が羨ましいと笑う由比の言葉に、身体から力が抜けた。
ゆっくりとその場を離れて、部屋の鍵を取り出す。
ばれないうちに、部屋に入ってしまおう。
そう思いながら鍵穴に鍵を差し込んだところで、出てきた圭介に見つかった。
間に合わなかった。
その後ろから顔を出した由比の目は、真っ赤に充血していて。
大泣きしていた声そのまま、少し泣きつかれた笑顔。
理由を聞いても、それは誤魔化された。
本当は、理由を教えてくれるまで聞きたかったけど。
変なプライドが、それを邪魔した。
誤魔化すためのその言葉に、のっかって……。
「ほら、翔太」
目の前に畳まれた洗濯物が置かれて、考え事から意識を浮上させる。
横には圭介。
取り込んだ洗濯物を畳み終えたらしく、翔太の分をテーブルに置いて向かいの自分の席に座った。
手には、翔太の持つグラスと同じもの。
いつの間にか、麦茶をグラスに注いでいたらしい。
「圭介」
「ん?」
麦茶を飲んでいた圭介が、翔太に視線を向ける。
翔太は真剣な顔で、じっと圭介を見返した。
「俺、由比が好きなんだ」
「……」
分かっているとでも言うように頷かれて、翔太は少し語気を強める。
「由比が、好きなんだ」
同じ言葉を、圭介がどう受け取ったのか分からない。
けれど圭介は麦茶を飲み干すと、分かってるよとただそれだけを言って夕飯の用意を始めた。
その後姿から目を逸らして、手元のグラスに落とす。
――圭介は?
その一言が、口に出せない……