24
私の視線に気付いたその人は、困ったように首の後ろに手を置く。
「あの後じゃ開けてくれないかと思って、丁度来た神野さんにお願いしたんだよ」
「圭介さん……」
そこにいたのは、圭介さんで。
私の声を聞いて、がばっと頭を下げた。
「ごめん、由比さん」
いきなりの行動に、思わず後ずさる。
「え?」
「心配で、つい……でしゃばりすぎた。……泣かせて、ごめんね」
「……っ」
伸びてきた指に目元をなぞられて、もう一歩、後ろに下がった。
宙に浮いた手をそのままに、圭介さんは私を見下ろす。
「一人で、悩んだよね? 言いたくても、我慢したんだろうに……」
その言葉に、俯け気味だった顔を上げた。
「なのに、責めてしまってごめん。辛いのは由比さんなのに、私じゃないのに」
そう言うと、浮いたままの手を伸ばして私の頭にのせた。
「圭介さ……」
目を見開いた私は、まだ顔が強張っているだろう。
けれど、動くことが出来なかった。
頭の上をゆっくりと行き来するのは、優しくて温かい重みで。
幾度か撫でた後、髪を梳くように後ろに流れた。
ゆっくりと肩に置かれる、大きな手。
「内容は、言わなくていいから。もう、聞かない。……でも、由比さん。力を抜ける場所は、あるの?」
「……場所?」
問い返す私の言葉に、圭介さんは言葉を続けた。
「全員に対してじゃなくていい。全てをさらけ出せとは言わないけれど。心の中の、言葉。ちゃんと、吐き出す場所はあるの?」
心の中の……
瞬きを忘れたように見上げる私を、圭介さんは優しい目のまま見ていて。
「痩せてしまうほど辛くて、それでもどうにも出来なくて、原因であるだろう桐原さんにも何も言えなかった。苦しかったよね? 一人で我慢するのは」
だから……
そう言うと、誰しも皆安心してしまうような、穏やかな笑みを浮かべる。
「俺が、その場所になれたらって……。そう思うのは、由比さんにとって重荷かな」
「圭介さん……」
「辛いだけでもいい、苦しいだけでもいい。言葉にして、俺に預けて」
その目は、とても穏やかでとても真剣で。
抑え込んでいる涙が、目じりに溜まり始める。
なんでだろう。
責める言葉じゃなくて、優しい言葉の方が涙を止められない。
「一人で我慢することはないから。……ね?」
その言葉を聞いて、ドクンッ、と鼓動がはねた。
脳裏に浮かぶ、ここ最近の記憶。
大丈夫な振りをして、辛かった。
誰にも気付かれまいと思ってた。
誰にも、憐れまれたくなかった。
一人で、どうにかするって思ってた。
なんだか方向もやり方も言葉も間違っているけど、自分に好意を持ってくれた人に、それを伝えてくれた人に……。
その所為で、起きたという事実を知られたくなかった。
自分さえ我慢すればいいと思ってた。
全てが終わって、やっと緊張から抜け出せて。
これで、今までに戻れると喜んだ、昨日の夜。
寝る前に思い出したのは、桐原主任の辛そうな、目。
一週間前、エレベーターで会った時、私に辛らつな言葉をわざと言い放った桐原主任。
言われて反射的に振り向いた先の桐原主任と一瞬だけ合った、目線。
苦しそうで悲しそうで、後悔を含んだその目。
桐原主任を苦しめた、その思いに至る。
桐原主任に言ったところで、何も変わらなかったかもしれない。
もっと酷くなっていたかもしれない。
けれど、自分の知らないところで、自分が原因で人を傷つけていた。
そんな思いを桐原主任に負わせてしまったのは、私だ。
余計な罪悪感を植えつけたのは、私だ。
あんな言葉を言わせてしまった原因は、私、だ。
自分にだけ精一杯で、周りのことを考えているつもりで本当にそれはまったくのつもりだけだった。
工藤主任に言われた、“上条さんが隠せば隠すほど、桐原は情けない奴になるだけなんだよ”この言葉。
私が、桐原主任を情けない人にしてしまった。
何も知らずに、何も聞かされずにいる当事者にしてしまった。
あんなに、辛そうな顔をさせてしまった――
私がやったことは、ただの自己満足だったんじゃないか――
そう気付いたら、眠れなくなった。
心臓をつかまれたかのように、胸が痛くて仕方なかった。
私がやったことは、正しかった。
私がやったことは、正しくなかった。
どちらでもいいから、はっきりと言って欲しい。
誰でもいいから、そう言って欲しい。
でも――
「頼ることをおぼえると、弱い人間になっちゃうから……」
何とか、言葉を口にする。
心に思う、反対のことを。
「それは違うな、由比さん」
圭介さんは、穏やかな表情のまま目を細めた。
「人に頼ることで、弱くなるんじゃないよ。自分を消した時、人は弱くなるんだ」
「……消した時?」
自分を消すって、どういうこと?
鸚鵡返しのように聞いた私に、圭介さんは小さく頷いた。
「そう。自分で考えることを、放棄した時」
意味がよく分からない……。
「考えることをやめたら、それは現実から逃げているだけだから」
――現実から逃げている
その言葉が、心に引っ掛かった。
――現実から逃げている……
「由比さん」
俯いて両手を握り締めていた私を、圭介さんが呼ぶ。
けれど顔を上げることは出来なくて、じっと自分の手を見つめていた。
「辛いなら、言葉にして。ただ“辛い”とだけでいいから。泣きたいなら、泣いていい。だから、そうやって……」
ぼやけ始めた視界に、細い指が入り込んできた。
そのまま目の下を拭っていく。
「声を殺して、泣かなくていいから」
拭われたことで、目じりに膨れていた涙が頬を伝い始める。
指先が、ゆっくりと優しくそれを拭う。
「由比さん、“辛い?”」
「由比さん、“悲しい?”」
「由比さん、“泣きたい?”」
その言葉に、私の感情は決壊した。