17
整理されているのは、ドアから見える範囲だけ。
足を踏み入れたラック裏は、先に進みたくても立ち止まらざるをえない状況だった。
腰を落としてしゃがみこむと、散らばっている紙を一枚取り上げる。
なんでもない、会社の古いパンフレットの原稿。
機密性の低いこの手の書類は、鍵の無いスチールラックにファイリングされてしまわれているはず。
顔を上げて立ち上がると一番奥、壁際にある棚の引き出しを開ける。
そこには、綺麗にファイルが収まっていた。
手に取ると、拍子抜けするほど軽くて。
それもそのはずだ。中身が、一枚も入っていなかった。
それを手に、もう一度書類が散乱している場所に戻る。
ざっと見ただけでも、何冊ものファイルの中身をぶちまけたんだろう事が見て取れた。
――なぜ?
ここの管理者は、気付いていないのか?
倉庫にはそれぞれメインで管理している社員が、必ず一人いる。
ここの管理者は……
桐原はファイルを手に持ったまま、ドアに向けて歩き出す。
その横に置いたトナーの傍にファイルを立ててドアを開けると、その横の壁に貼ってある管理担当者の名前を見て絶句した。
――備品倉庫 総務課担当
管理責任者 上条
「上条?」
一瞬目を逸らして、再び確認する。
見間違いではなく、それは上条の名前。
右手をゆるく握って、口元に当てる。
そのまま再び倉庫の中に戻った。
黙って考え込んでいた桐原は何かに気付いたように、口元に当てていた手のひらを見てから、綺麗に片付いている場所に視線を向けた。
備品倉庫。
管理者がいるとはいえ、毎日掃除をしているわけではない。
さっきトナーに触れた時、埃が少しも手についていない。
大股でトナーの詰まれている場所に向かう。
綺麗に整頓されているが、何か気になる。
眉を顰めて床に目を凝らすと、その違和感に気付いた。
「インクの……臭い?」
使用済みトナーは、ビニールに包まれてここに置かれている。
多少臭いはするが、ここまで強くないはずだ。
しゃがんで床に目を凝らすと、うっすらと残る黒い染み。
綺麗にしたばかりと主張されているような、インクを取り除いた跡。
顔を上げれば整理してつまれているダンボールには、全ての箱の側面に綺麗に在庫表が貼ってある。
それは全て同じもので、まだインクが黒々と綺麗に発色している。
色落ちの無い、まるで印刷したばかりのもの。
ぐるりと見渡した後、足はスチールラックの裏に向いていて。
その惨状を目にした時、皆川の言葉が頭に響いた。
――上条さんがどれだけ我慢しても、当の本人がこれじゃどうにもならないじゃない!
上条が、我慢、していた。
当の本人……俺が、原因で。
意味が分からず理解できていなかった皆川の言葉が、だんだん見えてくる。
なぜ、今日上条は昼を食いに屋上に来ていなかった?
なぜ、総務にいなかった?
何か知っているかと思って聞いた時の工藤の顔が、無表情だったのはなぜだ?
皆川が、あれほど敵意をむき出しにしていたのは、なぜ……
――同じ部署でもないあんたが、女性社員の事で他部署に聞きに行ったら、噂になるに決まってるでしょ?
噂。
人気がある、そう皆川は言っていた。
そんなもの俺には関係ない、そう思う。
不特定多数に好かれたって、好きな奴に思いが通じなければ何の意味も無い。
けれどその不特定多数が、特定の人間に敵意を向けたら……?
俺が、そいつを、好きだ、それだけの理由で――
足元が、揺れる。
思わず壁に背をつけた。
冷たく硬い壁が、余計俺の体温を下げていく。
そのままずるずると床に座り込むと、片手で顔を覆った。
――あんたはずっと何も知らないまま、守られていればいいんだわ
まも……られて、いた。
守られて、いた?
そうだ、そうだ……上条……。
最近、残業が多かった。
疲れたような顔で、もくもくと仕事をしていた。
罵倒されても、いい存在なのに。
その権利は、上条にあるのに。
それでも笑みを含んだ表情で、俺と話していた。
何も知らされず、守られていたってわけか。
いや、違うな。
何も知ろうとしていなかっただけ、か。
言われなくても気付かなければならなかったこと、か。
周りなんてどうでもいい、心底、今でもそう思う。
けれど、その周りを含めた場所で仕事をしているのだから……、周りを無視するなんてのは出来ることじゃなかった……。
言いようの無い罪悪感を、拳を振り上げて壁にぶち当てる。
骨に伝わる衝撃が痺れに変わって、肩まで上がってきた。
痛み? そんなもの、何も感じない。
上条が、感じていたものに比べれば……
込み上げてくる感情を、再び壁にぶつけたときだった。
ガツッという拳の音と同時に、ドアの開く音。
桐原は俯けていた顔を、勢いよく上げた。
もしかして、上条――
「びっくりした。上条さんが残ってるのかと思っちゃったよ、俺」
そう言って顔を出したのは、営業からの帰りなのかスーツの上着を肩に掛けた工藤だった。
目を見開く俺を見て、ぷっ、と噴出す。
「なんて顔してんだよ、桐原。この世の終わりじゃないぞー、明日もちゃんと日常は続いていくぞー」
上着をさっき俺が置いたトナーの横に掛けると、そこにおきっぱなしにしてあったファイルを手に俺の傍に来た。
「ちゃんと、理解、出来たか?」
「工藤、お前……」
この倉庫のこと、知ってた……?
上条の現状を知っていたとしても、倉庫のことは知らないと思っていた。
工藤は俺の横にしゃがみこむと、手に持ったファイルを横に置いた。
「知ってたよ。つっか、今朝、ここで上条さんに会ったから」
「なっ、それならなんで……っ」
立ち上がりかけた俺の身体を、肩を掴んで止める。
「理解、したんだろ? なら分かるな? 営業部の廊下でお前が上条さんの名前を口にしたことで、どれだけ彼女に迷惑をかけたか」
「……、後で言う事もしてはもらえないのか」
例えばメールでも、人のいない場所を選んででも。
でも桐原は、浮かした腰を降ろして頭を振った。
「いや、違う。言われないでも、気付かなければならなかったことだ。お前にこういうことを言うこと自体、間違ってる」
悪い、そう言って顔を俯ける。
工藤はそんな桐原を見ながら、足元に広がる書類を一枚ずつ手に取っていく。
「ま、例え周りに人がいなくても、俺は言わなかったけどな。上条さんに、口止めされたし。でもまぁ、一日でよくここまで綺麗にしたもんだ」
そう淡々と話す工藤に、桐原はちらりと視線を向ける。
「そんなに酷かったのか」
「あぁ、酷いなんてもんじゃなかったねぇ。俺、一瞬眩暈起こしそうになったもの。桐原って、もてるねーって」
「……茶化すな」
足回りの書類を拾い終えた工藤が、顔を上げて桐原を見た。
「茶化してないよ。それだけ、自分の言動と行動に責任を持てって事さ」
「……皆川にも、同じ様なこと言われた」
周りを見ろ、と。
「そうした方がいいと、俺も思う。ま、そんな顔してるお前に、言う言葉はないさ。自分で分かるだろ? どうするべきか」
その言葉に桐原はあげていた顔を、まだ書類の散らばっている床に向けた。
「そうだ、な。分かってる。とりあえず、人事の部屋戸締りしてくるわ」
「はいよ、俺は書類拾ってます。二人でやりゃぁ、今日中には帰れるだろ」
顔色の悪いまま立ち上がる桐原を、工藤はしゃがんだまま見上げる。
「ま、殴りこみに行くのだけはよしてくれよ?」
そう笑う工藤に、桐原は口端だけ上げて笑みを作った。
「今の俺なら、やんねぇよ」
前のお前ならやるんかい、倉庫から出て行く桐原の後姿を見ながら工藤は心の中で呟いた。