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表面上は、穏やかでいたって普通の日常が続いていた。
学祭を前に浮き足立つ生徒達に隠れて、沢渡が二年の唐沢と接触したのは誰が知るわけでもないこと。
名前だけ手に入れても仕方ない。
反対にその存在が現実味を帯びて、余計に感情を波立たせる。
沢渡は顔に笑みを貼り付けながら、イライラとした感情をもてあましながら日々を送っていた。
そんなことに気づくはずもない翔太と圭介も、いつも通りの日常を過ごしていて。
けれどもっともっと気づくはずのない由比は、なぜかいつもとは違う日常に少し前から直面していた。
とある企業のとある部署。
……すみませんー、とあるとか言いましたぁー。総務部ですぅー。
総務部所属 上条由比 二十二歳 女 独身……
「……とりあえず、現実逃避から帰ってこようか、由比」
ぶつぶつ言っていたら、隣で私の様子を見ていた桜に現実に引き戻された。
その顔は、同情色に染まっている。
ぶわりと涙が出そうな目を見開いて、桜の腕を掴む。
「だって、だって! なんで? どーして私の仕事ばかり増えるの?」
机に乗る書類の束を片手で叩きながら訴えると、桜は困ったように笑う。
「それは……ねぇ? 隣の部署にいる桐原とかいう主任の所為でしょ? 分かりきった事、聞かないでよ」
手伝ってるこっちの身にもなって、そういわんばかりの溜息に私の手が桜から外れた。
そのまま書類に視線を移して、私は思いっきり溜息をついた。
総務に所属している社員は、五人。
課長、主任、リーダー、そして私たち二人。
入社して二ヶ月経ったから、それぞれの担当が決まっていた。
大きなミスもなく、上手く回っていたのに。
ここ最近、私の担当する“備品・消耗品の管理、倉庫・資料室の管理”の仕事が多いのだ。
発注で上がった消耗品を届けに行けば、頼んだものが違うだの遅いだの文句を付けられ。
前日に片付けた資料室は、翌日の夜には嵐でも来たのかよ、位に荒れ果てる。
視線を窓に向けると、既に真っ暗闇。
今日は桜の当番日で、私は残業。
八時に届きそうな時間に、まだ終わらない書類が机に鎮座ましている。
これを早く終わらせて、明日か明後日には倉庫の片付けに回らないと。
……はぁ……
ため息しかでないよ。
私の幸せは、どのくらい逃げていったかなぁ。
それもこれも……
「お前ら、まだ残ってるのか? そろそろ時間だろ」
いきなり開いたドアから、憎むべき奴が顔を出した。
つやつやと生気みなぎる顔しやがってっ!
桐原主任はドアを閉めると、一番手前の私の机の隣に立つ。
「お前どんだけ仕事ためてんだ」
「……遅いもので」
一言だけ答えると、私は主任から顔を逸らして手元の書類に目を落とした。
桜が何か言いたそうに横目でこっちを見てくるけれど、あえて流す。
桐原主任は怪訝そうに、私を見下ろしているようだ。
しんとした、室内。
桜の叩くキーボードの音だけが、カタカタと軽く響いている。
「上条? お前、なんかあったのか?」
「なんにもないですよ。ただ疲れてるんです。桐原主任と言い合う気力は少しもありません」
冷たいかな、とも思える声でついきっぱりと言ってしまった。
少し気まずいけど、まぁいいよ。
疲れてるのは本当だから。
「手伝おうか?」
手に持っていた鞄を床に置こうとする桐原主任に、慌てて私は立ち上がった。
多分無表情ではあるだろうけど、そこは許して欲しい。
「全然大丈夫です。人事の主任にして頂くことはひとっつもありませんので。はいはい、早く帰ってくださいよ。主任、歳なんですから」
そう言って、桐原主任の背中を押してドアから追い出す。
「おい上条?」
顔だけ振り向けながら少し困ったような顔をされたけど、一切無視!
「お気遣い、ありがとうございます。お疲れ様でした!」
思いっきり、ドアを閉めた。
ついでに鍵も。
案の定、ドアノブが回ったけれど鍵が閉まっていることに気付いて、桐原主任は諦めたらしい。
しばらくして、帰っていった。
足音が消えたのを確認して、鍵を開ける。
廊下には誰もいなかった。
ふぅ、と息を吐いて自分の席に戻る。
「もう少し、誤魔化すとかできないの? 由比」
キーボードに手を乗せたまま、桜が私を見る。
「私としては、かなり誤魔化しているつもりなんだけど」
どこらへんが、と呟く桜は呆れた表情を浮かべていて。
「どう考えても、何かありましたって言ってるようなもんよ。今の態度」
「仕方ないでしょ、だって本当に何かあったんだから。それを隠しているだけでも、私は偉いもんねっ」
言い捨てて、仕事に戻る。
桜もため息をついてから、そうね……と呟いた。
「まぁ、我慢してるのは認めるわ。ホント、頑張ってるわよね」
「でしょ」
目を見合わせて、力なく笑った。