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「遠野センセ、もう弁当食った?」
学食近くの自動販売機で缶珈琲を買っていた圭介は、後ろから背中を叩かれたはずみで手にした缶が廊下を転がった。
圭介は息を吐いて屈めていた上体を起こすと、後ろにいるはずの男子生徒を振り返る。
「翔太。いきなり人のことを叩かない」
「だってせんせーがそこにいるから」
「私は、山じゃない」
そう言って、転がった缶を取り上げる。
昼休みも終盤、人もまばらな学食に翔太と連れ立って入ると、奥の席に腰を降ろした。
周りに人がいないから、話しやすいといえばそう。
目立つといえば、そうかもしれないが。
翔太は圭介の前の席に座って、パックのジュースにストローを差し込む。
「遠野せんせーは、学祭なんかやることあんの?」
いきなり聞かれた言葉に、圭介は珈琲に口をつけながら視線を上向ける。
やること……?
「準備段階では特に無いよ。生徒が残るのに付き合って、職員室か準備室にいるだけ。当日は、見回りがあるが。どうして?」
「由比の迎え。朝は大丈夫だけど、夜は俺もクラスの準備でたまに残ったりするから。出来る限り俺が行くけど、駄目そうな日があるからさー。先に伝えておこうと思って」
「あぁ、なるほど」
圭介は持っていた珈琲の缶をテーブルに置くと、白衣のポケットから手帳を取り出した。
それを渡すと、翔太は一緒に渡されたペンで何箇所か日にちを丸でぐるりと囲む。
「そんなに無いけど、圭介行けそう? 無理なら、どーにかするからさ」
返された手帳を確認して、圭介は大丈夫と頷いた。
「調整はつくから大丈夫。翔太こそ、あまり無理するんじゃないよ」
「んー。んじゃ、俺行くわ」
「あぁ」
小さく片手を上げると、翔太は伸びをしながら学食から出て行った。
その後姿を見送って、頬杖をつく。
他人を受け入れないように生活していた翔太が、由比のことになるとまるで態度が変わってしまうことにある種、安堵している自分がいる。
やっと自分以外で、心を許せる人ができたことが兄として喜ばしい。
……けれど。
「由比さん……か」
由比の姿を思い浮かべる。
今朝、駅まで送ったのは圭介。
翔太と駅に行くのと違って、車に“乗せてもらう”、この状態が由比にとっては恐縮の極みらしくて。
車に促すと、困ったような笑みを零す。
――朝だから、一人でも大丈夫
そう言い出しそうな口元に気付くと、圭介はなぜかもやもやとした気持ちに捕まってしまう。
その言葉さえ、聞くのが嫌なのだ。
翔太とは、遠慮せずに一緒に行くのに……と。
妹……
「妹がいたら、シスコンにでもなりそうだな……俺は」
翔太にさえ少なからず対抗心を持ってしまった自分に、苦笑しか浮かばない。
ため息をついた圭介の耳に、予鈴が響く。
次の時間は授業が入っていないから焦る事はないけれど、とりあえず準備室に戻るか……と椅子から立ち上がると出しっぱなしの手帳を白衣のポケットに収めて、学食から出て行った。
その後姿を固唾を呑んで、見送っている影が三つ。
圭介がいた席の後ろ、パーテーションで区切られた掃除用具入れのあるスペース。
そこからこっそり出していた顔を、圭介が学食を出た途端引っ込めてお互い顔を付き合わせた。
「……ちょっと……、聞いた?」
「……聞いた。“ゆい”って誰?」
「知らない。でも、多分遠野先生と翔太くんのお弁当作ってる人なんじゃない? 送り迎えがどうのって……」
三人の女生徒が、こそこそと小さな声でまくし立てる。
「妹って言ってたし、なんか年下?」
「もしかして……、学校の生徒じゃないでしょうね?」
「えーっ、もしそうなら分かるって! それに、同じ学校で送り迎えはおかしくない? でも最近だよね、お弁当持ってき始めたのって」
「誰のものでもないから、目の保養なのにっ。誰よ、“ゆい”って!」
今、学校の大半が興味を持っている、遠野先生と翔太のお弁当を作っている人に関する秘密を知ってしまったようで、悔しいと思いながらもなぜか気持ちが高揚していく。
探偵にでもなったような。
偶然知ってしまったその秘密から、犯人……渦中の人を、暴きたいというよく分からない使命感。
誰も命令などしていないのに、与えられた指令のように三人は導き出せる答えを懸命に考える。
「材料が少ないわよね。もっと何か……」
「あ、ねぇ。溝口先生なら、何か知ってるんじゃない? 職員室の席、隣でしょ?」
「確かに。それにあの先生なら、聞きやすいし?」
きらりと光りそうなくらい、使命感に燃えた六つの瞳が一つの目的を持つ。
「……放課後、聞きにいってみる?」
「いくいく、どうせ体育教官室でしょ? 今日、部活休みだし」
ちなみに、今しゃべってる一人は、溝口が担当している陸上部に所属している。
――にやり
まさかさっきまで自分がいた場所で、そんな企みがスタートしているとはまったく気付いていない圭介は、
社会科準備室でのんびりとお茶を啜っていた。