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基本 周りで起こる事って
当事者だけが 何も気付かなかったりするわけで――
五月も終わりのころになると、まったく祝日のない六月を前にだるい雰囲気が漂う。
が。
遠野兄弟がいる高校では、七月の初めに学祭があるためゴールデンウィークから引き続き騒がしさに拍車がかかっていた。
「子供は、ホント元気ですよねぇ……」
圭介の隣の席に座っている男性教諭が、ギシリと背もたれに体重を掛けて両腕を組んだ。
体育担当の溝口がそれをやると、威圧感があって少し羨ましいなと密かに思う。
圭介はそんなことを考えながら、鞄から取り出したお弁当箱を机に置いた。
「おや、今日も弁当ですか。羨ましい」
背にしている窓から校庭を見下ろしていた溝口が、本当に羨ましそうに隣から覗き込んできた。
圭介は包みを解くと、箸を持った手を軽く合わせて“いただきます”と呟く。
その仕草を面白そうに見ていた溝口に、圭介はのほほんとした柔らかな笑みを向けた。
「ありがたいことですよ。うちは食べ盛りの高校生がいて、食費がかかって仕方ないものですから」
ぱこっと音がしそうな感じでふたを開けると、そこには和風なおかずが鎮座ましていた。
あわせるように、主食はラップに包まれたおにぎり。
具は梅干としゃけ。
翔太のは、たらことしゃけだと今朝会った由比が言っていた。
煮物や箸休めのお漬物、卵焼きがある中で、毎日必ず揚げ物か焼き物が一つ入っているのは、成長期の翔太の為の様だ。
煮物のレンコンを口に運ぶと、しゃくしゃくと小気味良い音がして思わず口元が緩む。
久しぶりに食べる優しい味の煮物に、箸が進んだ。
圭介も料理はするが、どちらかというと洋食中心。
しかも、焼いたり炒めたりという、簡単なものしかできない。
惣菜を買う事もあるが(いや、結構頻繁に)、どうしても味つけが濃いことが多く、由比の作ってくれる和食は、本当においしかった。
いや、洋食もおいしいけれど。
「嬉しそうですねぇ……」
学食の弁当を食べ始めた溝口は、にこにこしながら食べている圭介を少し呆れ気味に見た。
「おいしいですから。あ、差し上げませんよ? 言い続けていますが」
「分かってますよ。頑なだなぁ、顔に似合わず」
そう言って、自分の弁当を手にとってガツガツと擬音をくっつけたいほど豪快に食べる。
その姿を見ながら、圭介は再びおかずを口に運び始めた。
由比が弁当を作らせて欲しいと言ってきたのは、確か二週間くらい前。
仕事帰りの由比を迎えにいった翔太が、そう伝えるように言われたと帰ってきて言い出した。
現に、その日、翔太は由比の弁当を食べたらしい。
圭介はたまに貰うおかずの味を思い出して、即答しそうになる口を噤んだ。
たまにとはいえ、おかずを貰って食費を使わせているというのに。
今日もおかずを持ってくるって、と言われた圭介は、炊飯器の中のご飯を確認してから両腕を組んだ。
申し出は、本当に嬉しいしありがたい。
男二人分の昼食代は、意外と馬鹿にならないから。
しかも圭介には同僚との付き合いも、たまにだがある。
教師の給料で、それは痛い出費だった。
それは、目先の出銭を考えた上での悩み。
翔太を大学に行かせるための資金を、もう少し貯めたい。
先月引っ越してくる前までバイトをしていた翔太は、今は何もしていない。
受験勉強もあるから、強制的に止めさせた。
本人は、もう少し落ち着いたら短期バイトを探すと言ってはいるが。
「圭介?」
翔太に呼びかけられて振り返ると、そこにはひょこっとドアから顔を出した由比の姿があった。
「あ、由比さん」
慌てて短い廊下を歩いて傍に行くと既におかずのお皿は手渡された後らしく、翔太がすぐ傍のテーブルに置いてペリペリとラップを剥がしている。
玄関先で、と苦笑する由比に翔太がいーじゃん別にと軽く言葉を返す。
「おー、ロールキャベツ!」
ふわりと漂う匂いに、思わず喉が鳴った。
「じゃ、私戻りますね」
何も言い出さない自分に痺れを切らしたのか、由比さんが開けたままのドアから身体を引っ込めようとしたその瞬間、思わず手を伸ばして由比の腕を掴んだ。
「えっ?」
驚いたように立ち止まった由比に、そのまま居るように伝えると、自分の部屋として使っている六畳の和室に入った。
そこから、食費としてよけてある封筒を手に由比の元に戻る。
「さっき翔太から聞いたんだけど、お弁当、本当にお願いしていいの?」
由比は頷いて、リビングに戻って楽しそうに食器をテーブルに並べている翔太を見た。
「ご飯を食べてもらえるのって、本当に嬉しいの」
「でも、大変だよ?」
「どうせ自分の分もつくるし、言い方悪いけどついでっていうのもあるし。それに、量を作ると少なく作るよりおいしいんだよ?」
そういいながら、だしがどうとか旨みがどうとか言う由比に目を細める。
可愛いな、と、ふと浮かんだ。
自分にご飯を作ってくれる、しかも楽しそうに……嬉しそうに。
それに、翔太の分も入っていても。
可愛い。
妹がいたら、こんな感じなんだろうか。
少しだけ当てはまらない感情に首を傾げながら、圭介は封筒から一万円札を数枚出して由比に渡した。
「え、これって?」
思わずといった風にそれを手にした由比は、その金額に圭介を見上げた。
「お弁当と夕飯の材料代。さすがに、送り迎えだけじゃ由比さんの割に合わない」
「えっ、そんなのいいです!」
圭介は自分に向けてそれを返そうとする由比の手を、そっと押し返した。
「駄目。じゃないと、おいしく食べられなさそうだから。せっかくの由比さんのお弁当だし……、ね?」
諭すように言うと、既にロールキャベツを食べ始めていた翔太が、貰っときなよーと声を上げる。
「学食行ってもコンビニ行っても、結構かかるし。その分だと思えばさー」
「え、でも」
「うん、そうだよ。それを受け取ってもらっても、うちは金銭的に助かるんだから」
翔太の言葉に重ねて言い募る。
「つーか、せっかくのおかず冷めちゃうよー。由比のも冷めてるんじゃない?」
すると翔太も気付いたのか、追い討ちをかけるように言った。
由比は少し困ったように眉を顰めると、うちのはお鍋に入ってるから……と呟いた。
「じゃあ、これだけ、頂いていいですか?」
由比は一枚だけ抜き取ると、残りを圭介の手に押し付けた。
とっさにそれを掴んでから、由比を見る。
「それじゃ少ない、お弁当と夕飯、しかも二人分……」
「大丈夫! 節約得意だし、おかずは毎日じゃないし。しかも、駅までの送迎付きなんだから。じゃ、おやすみなさい!」
「あっ、由比さ……っ」
伸ばした手は、閉められたドアに遮られた。
その後リビングに移動して食べたロールキャベツは、本当においしくて。
翌日から始まった弁当は、夕飯のおかずに続いて楽しみの一つになった。
「あー、旨そうな手作り弁当見ながらのコンビニ弁当って、すげぇ味気ない」
溝口がぼやいた言葉で、意識が現実に引き戻される。
無意識にも箸は動かしていたようで、弁当箱におかずはもうない。
圭介はそのふたを閉めると、ふぅとため息をついた。
考え込むのは、自分の悪い癖だと分かっているのに。
おいしいはずのおかずは、無意識に胃袋に収めてしまった。
「溝口先生も、お弁当にしてはいかがですか?」
弁当を持ってきてからずっと隣でぐちぐちと言う溝口に、温和な圭介もいい加減閉口していた。
珍しく嫌味を口にした圭介を、溝口は胡乱な視線を向ける。
「あー、そうですねぇ。とりあえず弁当を作ってくれる、そんな可愛い彼女を作る事が先決ですねー」
食べ終えた弁当箱を鞄にしまうと、圭介は珈琲を買うために職員室を後にした。
後ろで溝口が何か言っているのを、聞き流しながら。
「遠野先生の彼女は、どんな方か噂の的ですがねぇ……」