17
「ねぇ、あんた最悪なんだけど」
由比が帰った後、しばらく呆けていた皆川は開けっ放しの襖を閉めて座布団に腰を降ろした。
目の前に座る桐原は不機嫌の境地をさらけ出して、頬杖付いたままそっぽを向いている。
その態度にため息をつきながら、宥める様に皆川はことさらゆっくりと桐原に問いかける。
「どれだけ彼女を怒らせていたか、分かった? 信頼を回復するの、かなり難しいと思うわよ?」
「……」
優しく言ってやってるのに何も答えない桐原に、押さえようとしていたイライラが頭をもたげる。
「大体、なんで彼女の事“ねずみ”って呼ぶの? あの子、あんたの前で言うのもなんだけど可愛いわよ? あんたが変に構うから言われないだけで、結構見てる男性社員多いんだから」
「誰」
横を向いていた顔が、怒りを湛えて皆川の方を向いた。
それを見て、もう一度ため息をつく。
「言うわけないでしょ? 容赦なく、あんたに潰されそうだもの。で、なんで? どうして“ねずみ”?」
皆川が“由比を見ている男性社員”を言わない事に腹は立つが、追求されるのを面倒に感じた桐原は顔を横に向けてぼそっと何か呟いた。
「は? 聞こえないわよ」
小さすぎて聞こえなかった答えを、皆川は聞き返す。
すると桐原は不貞腐れたように言った。
「可愛かったから」
思わず、目を見開く。
かわいい=ねずみ……?
皆川はあまりイコールにならないその方式を、復唱する。
「可愛いと、ねずみ……なの?」
桐原はうるさいとでも言うように、頬杖をついていた手で前髪を掻き揚げた。
「ちょこちょこ動いて懸命に前を見ようとする姿が、そう見えたんだ」
悪いか、と付きそうなくらい不機嫌な桐原は、また口を噤んでしまった。
それを見て、一気に皆川は脱力する。
「あんた……。もっと可愛いものに、例えられなかったの……?」
リスとかネコとかハムスターとか!
なんで、よりにもよってねずみ?
「つい、口から出ちまったんだよ。上条が挨拶に来た時。しまったって思ったけど、言い直せるもんでもないし。そのうちあいつが噛み付いてくるのが面白くて、そう呼んでた」
「あんた、ホント馬鹿? ヘタレ? つーか、仕事はそつなくこなすのに、何なのよその恋愛ベタ。今時、中学生でもそんな事しないわよ」
ツンデレてーか、桐原の場合ツンツンばかりでベースがヘタレときた。
思わず誰か助けてと、望んだ皆川に罪はない。
「うるせぇな……」
桐原は皆川の残念なものを見るような視線に、不貞腐れた声を上げる。
「俺だって、一応しまったとは思ってんだよ」
小さな声でぶつぶつ言うその姿に、皆川は思いっきりため息をついた。
その俯いたままの体勢で鞄に手を伸ばすと、携帯を取り出す。
「すぐに謝りなさいよ、ちゃんと言いたいことを言いなさい」
「言ったけど、流されたって」
「自業自得。好きなら足掻きなさい」
面倒くさそうに言う桐原を尻目に、皆川は通話ボタンを押して耳に当てた。
数コール後、出た声はいつもより低く。
怒ってるな~と口を引き攣らせつつ、皆川はいつもより優しい声を出した。
「上条さん、ちょっと話があるんだけどいいかしら」
携帯の向こうでは、こちらを探るような雰囲気を醸し出していて。
あぁ、とうとう私まで警戒する人間に入ってしまったかと肩を落とす。
「今どこにいるの? 駅? じゃ、すぐに行くから待っていてくれないかしら」
物凄く長い沈黙の後、やっとの事で了承してもらえてほっと息を吐いた。
携帯を鞄に戻して立ち上がる。
「ほら、行くわよ」
「別に……」
「うざったい。あんた本当に面倒」
盛大にため息をつくと、むっとした表情のまま桐原が立ち上がる。
皆川は会計を桐原に押し付けると、店の前で出てくるのを待つ。
「ったく……」
何度目かになるため息を零して、苦笑する。
ここまで面倒見ることもないんだけど、どうしても手を出したくなってしまう。
あの、傍若無人桐原が、他人に無関心な桐原がここまで惹かれているのだから。
同期のよしみで、何とかしてやりたいと思ってしまう。
「下の弟に似てるからかしらねぇ」
桐原が聞いていたら、無言で小突かれそうな言葉を思わず零した。