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呟いた言葉に、その顔はにっこり笑ってベランダから外へと身を乗り出した。
「えっ、ちょっ!」
慌てて伸ばした両手で、その子の腰にしがみつく。
「危ないっ! 危ないから!!」
お化けかもしれないという憶測は吹っ飛んで、目の前で人が落ちるかもしれないその状況に真っ青になりながら両腕に力をこめた。
――所で、はたと気づく。
……腰?
ベランダを乗り越える人間の腰を、隣のベランダとの間にある仕切り越しに掴めるもの……?
「――あの、おねーさん。別に落ちるつもりじゃないから、離して欲しいな。切実に」
頭の上から聞こえる声に、恐る恐る頭をあげた。
仕切りをまたぐ様にベランダに腰掛けている、男の子。
困ったように頭に手をやっているその姿に、瞬きを繰り返す。
「え、え?」
もう、何がなんだかよく分からない。
誰? この子、一体……
「お願いだから、離してってばー」
「お前が驚かすからいけないんだろう? あぁ、すみませんお嬢さん」
後ろから男の人が、腕を伸ばして男の子を捕まえる。
「子供じゃないんだから、馬鹿なするなって」
呆れたような声を上げながら、男の子を軽々と隣のベランダへ引っ張り……
「いてっ」
……落とした。
私は外れた腕をそのままに、新たに現れた男の人を呆気にとられたまま見上げた。
二十代後半もしくは三十代前半くらいかな。
短めの髪に、優しそうな目。
そんなに筋肉なさそうなのに、男の子を軽々と引っ張り上げて……
「後ほどご挨拶させていただくはずだったんですが、こんなところからすみません。隣に越してきた、遠野です。よろしくお願いします」
じっと見ていた私に気付いて、その男の人……遠野さんは頭を下げて柔らかく笑った。
うわぁぁ……、笑うと凄く可愛い……。
さっき引いたはずの血が、一気に顔に集まってくるのを感じて思わず俯いた。
「私の方こそすみませんっ。あの、えっと上条です。上条 由比です」
「俺は翔太! ていうか、名前言わないとわかんねーじゃん。俺たち二人とも、遠野なのに。大人のクセに抜けてるよなー」
ひょこっと遠野さんの前に顔を出してきた男の子、翔太くんは途中から視線を上げて呆れた視線を向ける。
それを受けて軽く翔太くんの頭を叩くと、遠野さんは恥ずかしそうに私を見た。
「遠野 圭介です。上条さんはお一人暮らしなんですか? ご家族の方は……」
ちらりと布団に視線を向ける圭介さんに、慌てて両手を振る。
「おっ、お一人暮らしですっ」
「お一人暮らしって、自分で言うかー? ていうか、女の一人暮らしをほいほい暴露するってどうよ」
翔太くんに突っ込まれて、両手を挙げたまま顔を俯ける。
「お前はホントに……。すみません、こいつ口悪くて」
慌てて翔太くんの頭を下げさせる圭介さん。
なんだか仲のいい親子だなぁ……。
思い出しそうな記憶を見ない振りして、にこりと笑う。
「いえ、とんでもないです。その……、今日からこちらに?」
荷物を運び入れたような音がしなかったことを不思議に思いながら聞くと、圭介さんは気付いたように腕時計を覗き込む。
「あ、これからなんです。騒がしくしてしまうと思いますが、どうもすみません」
「いえ、どうぞお気になさらないでください」
頭を下げる圭介さんに合わせて同じ様に頭を下げると、彼は仕切りの向こうに姿を消した。
私もサンダルを脱いで、部屋に戻る。
ゆっくりと窓を閉めると、両手で頬を押さえた。
うわーっ、恥ずかしかったぁぁっ!
どきどきと鼓動を刻む心臓を感じながら、真っ赤だろう頬が熱くて仕方ない。
女子高だったし、女子大だったし、やっと就職した会社も部署は総務で男性比率は低い。
恥ずかしいのよ、慣れてないのよ、しかも圭介さんカッコイイし!!
やっとおさまってきた鼓動に、小さく息を吐いてベッドに腰掛けた。
壁の向こうでは引越し業者が着たのか、チャイムに続いて部屋を歩き回る音が微かに聞こえる。
ていうか、なんでうちの隣なんだろう。
二階にある五部屋のうち、埋まっているのは私の部屋だけ。
普通角部屋とかの方が、よくない?
首を傾げつつパチンと頬を軽く叩くと、さっきやろうとしていた洗濯に取り掛かった。