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向かいの席には、味噌汁を啜る桐原主任の姿。
目の前には、おいしそうな鯖味噌定食。
どんな、シチュエーションですか? これ。
「こっち見てないで、食え。いらないなら、さっさとよこせ」
「いえ、食べます。ご飯に罪はない」
両の手のひらを合わせてから、箸を取った。
味の馴染んだ鯖は、柔らかくおいしくて。
口に入れると、ほろりと崩れる。
思わずにやけてしまう頬を、桐原主任が伸ばした指でつまみ上げた。
「ちょっ、痛いんですが?」
まぁ、少し引っ張られてるだけだからそこまで痛くないけど、食べ辛い。
おいしい物を食べている最中の意地悪は、止めていただきたい!
そんな意味を込めて睨みつけると、桐原主任は面白そうに口端を上げてその指を離す。
「さっきまで嫌そうな顔で膨れていたくせに、飯食った途端幸せそうにしやがって」
箸を持ったまま笑う桐原主任は、いつもより不機嫌さが払拭されている。
そのかわり、いつもより少し優しそうな目つきになっているのはなぜだろう。
離された頬を片手でさすりながら、そう言えば……と疑問に思っていたことを口にしてみる。
「主任は今日、出勤だったんですか? しかも、こんな遅い時間まで」
せめて終業時刻に帰ってくれていれば、絶対会わなかったのに。
とは、口にすまい。
桐原主任は食べていたしょうが焼きを一気に口に入れると、その上からご飯を放り込んで口を動かした。
少し待てとでも言うように、箸を持った手をこちらに見せて。
ていうか、豪快な食べ方だなぁ。
少し感心しながら、私も鯖を食べ進める。
おいしくご飯を食べる人に、嫌な人はいない。
そんな私の座右の銘が、崩されてしまいそうだ。
いつも不機嫌そうだし、表情も少ない。
けれど、格好いい部類に入る主任は、意外に人気があると知ったのは入社してすぐの事だった。
“ねずみ”発言後に言い争う事が多くなった私に、同僚が教えてくれたのだ。
人気のある人だから、恋愛感情がないならあまり近づかない方が身の為だよって。
そんな修羅場な状況になりたくないから頷いていたんだけど、いかんせん主任が絡んでくるからどうにもならず。
今は気にしないことにしてる。
まわりもただ私が遊ばれているだけって見えているらしくて、表立って何かされる事はないし。
だいたい、恋愛感情がわたし達の間にあるわけがない。
こんな挑戦的な求愛行動、嫌。
だったら、圭介さんの方がいいなぁ。
あんな優しい人が彼氏だったら、ほんわかと毎日過ごせそう。
まぁ、妹なんだけどね。
それはそれで、嬉しい。
だって、自分をその人の領域に入れてもらえたみたいじゃない。
恋愛っていう有償の感情じゃなくて、家族に向けるような無償の感情。
あんなに優しい笑顔で言われたら、“男の人”と身構えずに接する事ができそう。
例えば初日や次の日みたいに、ただ普通の話をするだけで赤くなる事は少なく出来そうだから。
まぁ……“凄く可愛い”に、少しどきんとしてしまったのは許して。
そして、“妹みたい”の言葉に、嬉しくも少しだけ落ちた感情も許して。
だってもしまたあの笑顔で“可愛い”なんて言われたら、妹的立場でも赤くなる気がする。
「何、考えてんだよ」
「え? けいす……。いえ、この鯖はおいしいなと」
いつの間にか口の中のものを飲み込んだのか、お茶を手にした桐原主任が目を細めてこっちを見ていた。
……不機嫌そう……
睨まれる覚えはないけれど普通に怖いので、手元の鯖味噌定食に視線を固定する。
といっても今考え事しながら食べ進めてしまったので、残っているのはお味噌汁のみ。
これ飲んだら、間が持たなくなっちゃうな……
「食べ終わったんで、二つとも下げて」
その言葉に、がばっと勢いよくお味噌汁を飲み干しました。
つーか、何、この強制っ。
呼ばれて来た店員のおねーさんが、手早くトレーを下げていった。
しかも、なぜかワタシへの睨みつけ付き。
だから、なんで。
思わず溜息をつきながらお茶を啜ると、向こうは湯飲みをテーブルに置いた。
「休み明け、うちの会社、入社面接があるんだよ。それの準備」
「は?」
いきなりなんだと思いながら首を傾げると、今日出勤した理由、と続いた。
「お前こそ、どうした? 総務は全員休みだろう?」
――今日、何をしていたの、か。
別に、絶対秘密なわけじゃないんだけど。
でも――
「あの、」
口から出た言葉は、これで。
その後が、続かなかった。
「その、」
口を開いた途端、鞄に入っていた携帯が鳴り出してびくりと肩を震わす。
「あ、あのっ」
天の助けと思いながら携帯を手に取って桐原主任を見ると、一つ溜息をついて椅子から立ち上がった。
それに頷いて、荷物を手にお店から出る。
お金は後で割り勘にすればいよね。
道路に出て慌てて通話ボタンを押すと、
{――由比さん、まさか一人で帰ろうとしてないよね?}
圭介さんの、静かな声が流れてきました――
――説教、確実みたいです