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「まだ帰ってない?」
夏休みに入り、中学と大学に通う翔太と咲子はそろって出かけることが多くなった。
昼前に出かけ、そして夕食には自宅にいる。
お手伝いさんたちからそんな二人の行動を聞いていたけれど、圭介はなんらおかしなこととは思わず日々を過ごしていた。
片や中学生、片や大学生。
社会人である自分とは違う時間を過ごすことは、当たり前のことだろうと。
しかし、夏休みに入って二週間。八月も中旬に差し掛かろうとしていた時の事。
翔太が夕食になっても戻っていないことに気付いた。
その日在宅していたお手伝いさんたちに聞いても、昼過ぎに外出してから戻ってきていないとしかわからない。
掛け時計が指すのは、十九時過ぎ。中学生男子なら、まだ帰宅しなくても気にしなくてもいい時間だろう。外はまだ明るい。
圭介はなんでもない事とやり過ごし、先に夕飯に手を付けた。
咲は夕飯に少し遅れて帰宅した。夕食は済ませてきたからと、自宅に戻っていったけれど。
結局、翔太が帰宅したのは十時過ぎ。その前にこちらからメールを送って確認はしていたが、何の連絡もよこさずにということは初めてだったので、圭介は翔太をリビングで出迎えた。
「圭介、ただいま」
リビングに顔を出した翔太を見て、圭介は怒ろうと思っていた感情が萎んだ。
「翔太……、どうした?」
思わずそう聞いてしまうほど、何か思いつめたような表情だったから。
翔太は一瞬圭介と目を合わせると、すぐにその視線を逸らす。そうして無理やり口端を上げると、明るい声を上げた。
「ゴメン、ついつい友達と遊びすぎちゃって。今度から、遅くなるならちゃんと連絡するよ」
「……」
圭介は、思わず口を噤んで翔太を見つめる。
心なしか顔色が悪い。けれど、聞いて欲しくない事なのだろう、すぐにリビングを出ていこうとする翔太に、頷く以外の事が出来なかった。
それから翔太が夜遅く帰ることもなく、ホッとしていたのだけれど。
嵐の前の静けさ、油断大敵、いろいろな慣用句や四字熟語が圭介の頭を占めることになるまでにそんなに時間はかからなかった。
「なんですか、父さん」
もうすぐ夏休みが終わろうとしていた時の事、仕事中に職場にかかってきた電話はしばらく聞いていなかった父親からだった。
[相変わらず愛想の一つもない奴だな。用事があってかけたに決まっているだろう]
「職場まで電話かけてきて、用事がなかったらあなたの病院送りが決まるところですよね」
[……その口の悪さもいつも通りで安心した。今夜、仕事が終わり次第、すぐに家に戻れ]
是も否もない命令口調に、お断りですと一言言い放った圭介に、父親は言葉を続けた。
[翔太や咲子にも関係のあることだ。お前が来ないのなら、私が独断で決定を下す]
「どうせ私が行っても、そうするのでしょうに」
[知らないところで決められるのと、目の前で言われるのと、どちらがいいかだな]
「不本意な決定には従いません。今夜の事は了承しました」
それだけ言うと、圭介は電話を切った。
独断ですべてを決めていく父親の態度は、昔から変わっていない。
仕事上の父親を尊敬はしているけれど、人間的なところは一つも尊敬に値しない。
今度も、いったいどんな難題を振りかけてくるのやら……。
咲の母親との再婚を推し進めるつもりかな、そんな風に考えていた。
そのくらいのことだと思っていた。
「……翔太が、婚約?」
そんな簡単な事ではないということが分かったのは、職場から帰宅後、父親に連れて行かれた料亭の個室の一席だった。
そこにいるのは、圭介と父親のみ。
知らされた内容は、驚く事以上に呆れと憤りの方が激しかった。
「翔太はまだ中学生ですよ。十四歳の彼に、どう婚約しろというのです」
「婚約はいくつでもできる。法律上、なんの制限もないからな」
「……婚約は、本人同士の気持ちの問題です。勝手に決めることはできません」
ここまで父親が馬鹿だとは思わなかった。
「大体、縁戚関係を使ってでも広くするほどの家でもないでしょう、うちは。」
「企業としてのうちは、そんな縁戚関係も作っておきたいと思うわけだよ。それに……」
そこまで話した時、横の襖が開いた。
「お待たせいたしました」
そこで姿を現したのは、案の定というか藤原の……咲子の母親。
やはり、二人の結婚の……
「失礼いたします」
……え?
その後ろから部屋に入ってきたのは、咲子だった。
どうやら咲子も呼び出されてきたらしい。親の結婚の話だというのに、子供を連れて来るとは大仰な。
ほとんど事実婚のようなものじゃないか。
「この結婚を了承しなければ、翔太を婚約させるってことですか? 勝手にすればいいじゃないですか、いい大人なんだし」
自分達の再婚と翔太の婚約をはかりにかけさせるなんて馬鹿げてる。
くだらないと言わんばかりにため息をつくと、驚いたように父親が目をぱちぱちと瞬かせた。
「こっちの方が難航するかと思ったが、いいのかそれで」
「いいも悪いも、私には関係ない事ですからね」
「いや、お前に一番関係あることなんだけど」
「……は?」
なんで、私に関係が?
眉を顰めて聞き返せば、父親は肩を軽く竦めて座卓の向こうに座った藤原の母親と咲子に視線を向けた。
「じゃあ、まぁ本人の了承も得たことだし。圭介と咲の結婚はこのまま進めていくということでいいかな」
「……は!?」
「嬉しい、圭ちゃん!!」
圭介と同時に咲子が嬉しそうな声を上げて、両手を胸の前で組む。
その表情が嘘や冗談を言っているように見えなくて、圭介は父親に目を向けた。
「どういうことです!? 私と、咲が結婚?」
静かな料亭に、かなり響いたと思われるその大声にも父親は動じない。
一仕事終えたとでもいうように笑いながら、おしぼりを広げて手を拭き始めた。
そののんびりした仕草にむかついて、その手からおしぼりをとって放り投げる。
座卓を挟んだ向かい側から短い悲鳴が上がったけれど、それにかまうことなく父親を睨みつけた。
何も持っていない手をひらひらと振りながら、父親は口端を上げる。
「お前が今、了承しただろうが。大人だから勝手にやれって」
「父さんと藤原さんの再婚の話なのではなくてですか!?」
「何を今さら。俺達にそんな意思ねぇぞ」
「父さ……っ」
「圭ちゃん!」
なおも言い返そうとした圭介の言葉を、咲子の声が遮った。
混乱した頭のまま、視線だけ咲子に向ける。すると彼女は胸の前で両手を組んだその体勢のまま、顔を歪めて圭介を見つめていた。
目があって、瞼で堪えていた涙がぽろりと零れていった。
「咲……」
その様子に、圭介は興奮していた精神が落ち着いていくのが分かったが、今度思考を支配したのは意味の分からない困惑だった。
「私、嬉しかったのに! 圭ちゃんと結婚できるって聞いて、嬉しかったのに……」
「……え、あ……咲?」
「私、ずっと圭ちゃんの事好きだったんだから……!」
懇願するようなその声は、圭介の肩を揺らす。
今まで妹としか見ていなかった咲子の告白は、圭介にとって青天の霹靂以外何物でもなかった。
上がった息を落ち着かせるように、大きく息を吐き出す。
それにびくりと肩を震わせたのは、なぜか咲子の母。
この人は、出会ったころから私に対する苦手意識が抜けていないらしい。
一度目を瞑って、そうして咲子を見た。
驚きもあるけれど、これだけははっきりさせなければならない。
「私にとって、咲は妹だ。気付いてやれなくてすまなかったが、その気持ちには応えられない」
そう言って、頭を下げた。