20
「汚い……」
溝口の住むアパートは、高校からそんなに離れていない場所にあった。
駅にして、二駅ほど。
自分の住むアパートより新しいな、と思った圭介の第一印象はすぐに崩れた。
いや、新しい。新しいのは認めよう。
それを凌駕するほどの、
「汚い」
惨状。
玄関には脱ぎっぱなしの靴がいくつも散乱しており、少なくともこれを見た人はここが独り暮らしの部屋だとは思わないだろう。
短い廊下の先にある部屋が居間で、その横に見える襖の向こうが寝室になっているらしいが。
「ま、適当に座って」
「……適当」
あえて言うなれば、適当でも座る場所はない気がする。
読みかけの雑誌や新聞、珈琲が底に残るマグカップが小さいテーブルに置いてある。
床には朝脱いだままなのだろうスウェットと靴下、なぜか結ばれてもいない縄跳びの縄。
そしてダンベルとリスト・アンクルウェイトが転がってるのは、体育教師という所以か。
ただ単に、ジムに通う時間がないからなのか。
なんとなく部屋を見渡していた圭介を、冷蔵庫からペットボトルを二本片手で掴んで取り出した溝口か振り返った。
「あれ? 座れって」
バタンと冷蔵庫のドアを閉めて立ち上がると、溝口は大股で圭介の横をすり抜けて足で床の物を横に払った。
ざざざーっと、いろいろなものが一緒くたに端にどかされて、一応座る場所が出来る。
「ほれ、座れ」
とんっと、ミネラルウォーターのペットボトルを圭介の手に押し付けて反対側に腰を下ろした。
圭介は溝口のその態度に、思わず体から力が抜けて息を吐き出す。
緊張が緩んでいく感覚に、口端を上げて目を伏せた。
「なんだか、溝口先生には色々敵わない気がしてきましたよ」
「んん? そーか?」
パキッと軽い音をさせてキャップを開けた溝口は、いいから座れとペットボトルに口をつける。
圭介もつられるようにキャップを開けると、腰を下ろしてそれを呷った。
いつの間にか喉がカラカラになっていたらしく、いがらっぽさが冷たい水に消されていく。
どれだけ焦っていたんだ、と内心苦い気持ちが広がった。
一気に半分ほどの水を喉に流し込んで、一息ついた。
「少し、落ち着いたか?」
圭介が飲み終えるのを待っていたかのように、溝口が口を開いた。
「はい、ありがとうございます」
そう答えてから圭介は居住まいを正すと、溝口に頭を下げた。
「すみません、溝口先生。本当に助かりました」
そう謝罪する圭介の口調は真剣で。溝口は少し眉を上げると小さく首を傾げる。
「圭介が素直だと、なんだか怖いな」
その言葉とは裏腹に、とてもやわらかい声音に圭介の感情が落ち着いていく。
「溝口先生、やっぱり年上なんですね」
「なんだその納得の仕方は。そう思うなら、敬語をやめろ敬語を。尻がむず痒くってかなわん」
「年上だと実感した私に、敬語をやめろっていうんですか?」
普通は敬えとか、そうなるんじゃないだろうか。
言外にそう含めれば、溝口はもう一口水をあおってそれをテーブルに置いた。
「圭介のその敬語は、人と一線置くための手段だろう? もういい加減止めようぜ? 俺、気色悪くって」
今度は圭介が目を見張る番だった。
まさか、それを指摘されるとは思っていなかったのだから。
その様子を見ながら、溝口は後ろの壁に背をもたせ掛けた。
「はい、今なら敬ってもいーよ? 俺ってば凄いだろう」
にへら、と茶化す様に笑うのは、きっと圭介の事を思っての行動だと分かる。
圭介はやっぱり色々敵わないと内心呟くと、ずっと……それこそここ数年張りつめていた何かを緩めるように小さく息を吐き出した。
「本当に、凄い。溝口先生は」
「護」
「それは遠慮するから。せめて、溝口さん」
「由比は護さんなのに?」
ぽんぽんと交わされる会話が面白くて、溝口はつい調子に乗った。
由比の名前を出した途端、圭介の目が細められ威圧感を醸し出す。
「……由比さんに呼び名を変えてもらいます」
「悪かった! 俺が悪かった」
いつもと同じような会話なのにそれでも今までと違うと思えるのは、圭介の雰囲気が柔らかくなったせいなのかもしれない。
溝口はそんな事を内心考えながら、思考を切り替えた。
「で、藤原先生の事だけど」
切り出す溝口、そして切り出された圭介。
一瞬にして、柔らかくなったはずの雰囲気がまた強張ったものに変わっていく。
「面白くもない過去だけど……」
「いいよ、別に。この先の事も考えなきゃいけないだろ」
その言葉に、圭介は驚いたように溝口を見つめた。
圭介の視線を受けて、手についた水滴を福に擦り付けていた溝口が苦笑する。
「何驚いてんだよ。よくわかんねーけど、ややこしい事なんだろ? 巻き込まれてやるってんだから、おとなしく巻き込んどけ」
「……お人よし」
「いい根性してるよな、お前って」
思わず呟いた圭介の言葉に、溝口は気分を害することもなく肩を竦めて笑う。
その姿を見て、圭介は自然と笑みを零した。
一度目を瞑って息を吐き出すと、圭介は覚悟を決めた様に目の前に座る溝口を見た。