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きっと、それは  作者: 篠宮 楓
第6章 消せない過去、寄り添う現実
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先に来た教師が窓を開けていたらしく、暑いけれど廊下には気持ちのいい風が吹き抜けている。


校庭から聞こえてくるのは、部活動の為に登校してきている生徒達の声。

その中を、Yシャツとスラックス姿の圭介は手にした白衣に袖を通しながら、ゆっくりと歩いていた。

授業もないのだから白衣を着ることもないのだけれど、習慣というか着ないと何か違和感がある。

教師としてはまだまだだと感じている圭介だが、やはり六年以上教師をしていればいろいろと身に付く癖ができるらしい。


おかしなものだと内心一人ごちながら、図書室のドアを開けた。




やはり既に誰かが来たらしく、窓が開いてカーテンが揺らめいている。


夏とはいえ午前中はまだ気持ちのいい風が吹くなぁと、そんな事を考えながら最近入り浸るようになった場所へと足を向けた。



歴史は好きだ。

けれど教師になれば、自分の好きな分野だけ見ていればいいというものではない。

論文を書くのは手間も時間もかかるけれど、それでも好きな分野に没頭できるのはとても楽しい。

目当ての資料を手に取って、圭介は近くの壁に背をつけて寄りかかった。


めくれば、最近いつも目にする海岸の名前。


「由比」


由比ヶ浜。何度も見ているのにこの資料を手に取れば、毎回確認するように口にしてしまう。

しかし今日は、いつもと違った。

自分の醜い感情と、そうさせるくらい大きくなった彼女への恋情に気づいた後の自分。

彼女の名前の意味と同じものを持つ、彼女にとって大切な場所。

その名前を口にするだけで、気持ちが温かくなる。



食事会の翌日、由比に想いを伝えた。


困るだろうなって分かっていたけれど、前日の由比の事を考えれば時間を置くのはまずいと本能的に察した。

あの夜、悩んでいたはずの由比が、あっさりと元の状態に戻った。たった数十分で。

何かを諦めたと直感で気が付いた。

諦めたからこそ、悩むことも何もかもをやめていつも通りの由比に戻ったのだ。



線を引かれたことは明白だった。

由比の気持ちが自分に向いてくれるのを待っていたら、きっと彼女は自分から離れていく。

あの時、確信を持った。


だから。

伝えようと、決めた。



最初こそ避けられてしまったけれど、今は普通に戻ってる。

拒絶はされていない、と、思う。

……本音のところは分からないけれど。

ただ、今迄のように気軽に髪や手に触れられなくなってしまった。

真っ赤になる由比に、自分の劣情を抑えきれなくなりそうだから。

それでも触れたいと願ってしまう、矛盾を抱えるようになってしまったけれど。


でも。

彼女が自分を男として見てくれていると思えば、前に進めたと思う。




今日も朝、出勤前に弁当を届けてくれた。

予備校に行く翔太と一緒に、アパートを出る時。

わざわざ部屋に顔を出して、直接渡してくれた。

それだけで朝から幸せな気持ちになれると知ったら、子供っぽいと笑われるだろうか。


ふっと笑みが零れて、指先でその言葉をなぞる。


「……由比」



自分に、こんなにも強い感情があるとは思わなかった。

名前を呼ぶだけで、幸せになれる。


隆之さんの言う通り。

大切な名前を、音にして言葉にして、大事に大事に呼びかける。

とてもとても、幸せな……



目を伏せてもう一度名を呼ぼうとしたその時、カタ、と小さな音が鳴って圭介は体勢を変えないまま視線だけを少し上げた。



視界の端にパンプスを履いた足が見えて、人がいたことに気づく。


聞かれたかと思いながら、脳裏に溝口が言っていた事が浮かんだ。


―臨時採用の子達、今日から出てきてるみたいですねぇ


自分には関係ないと思っていたが、そういえばこの夏休み中は図書室を使う事が多いのだ。

図書室司書の子とは、会う確率が多いだろう。


そこまで考えて、圭介は小さく息を吐き出した。

まぁ、聞かれていたら仕方ない。

とりあえず、問い返されない限りは勢いで流してしまおう。


「あの」


声をかけられて、圭介は顔を上げた。


「臨時採用でいらっしゃった司書の方ですね。私は日本史担当、の……」

そこまで言い掛けて、圭介は息をのんだ。

思わず、目を見開く。



いつの間にかさっきより近い場所に、臨時採用の司書が立っていた。



肩より長い髪が、風に揺れる。

白い肌に、ほんのりと赤みが差した幼い顔つき。

まっすぐに自分に向ける潤んだその目を、微かに細めて。



「圭ちゃん」



耳慣れた、その声は。


圭介の思考を、真白く染め抜いた。


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