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風呂に入って自分の部屋に戻った翔太は、机に問題集を広げてはいたものの解くわけでもなくじっと窓から外を見つめていた。
目の前は、ベランダ。その上に、綺麗に星空が広がっている。
初めて、由比に会った日。
あれは、ここに越してきたその日の事だ。
もうずいぶん昔の事のように思えるけれど、まだたった四ヶ月くらいしかたっていない事に今更驚く。
そう思える程すでに由比は圭介と同じ、翔太の身近な存在、いて当たり前の存在になっていた。
素直で、単純で、お人よし。
無防備で、警戒心がありそうでなさそうでいまいち詰めが甘い。
初めて会って数日過ごして、羨ましくて堪らなくなった。
素直に人の言葉を信じてしまう、由比に。
相手を思いやるばかりに、自分の方が貧乏くじを引かされているようにしか見えない由比に。
きっとこの人は、愛されて生きてきたんだ。
自分とは違う、優しさの中で生きてきたんだって思ったから。
だから、自分のものにしたくなった――
その優しい場所に、由比の傍に、俺をいつかせて欲しかった。
顔じゃなくて、俺自身を見てくれる由比の傍に。
時折由比は、眩しそうに翔太と圭介を見る。
最初はなんだろうと思っていたけれど、その意味に気が付いて由比へのイメージを覆した。
その視線の意味は……憧れ・切なさ……そして寂しさ。
諦めとも取れるその色を見つけた時、自分の心に歓喜が宿った。
その感情の生まれた理由は知らない。
過去の事なんて分からない。
けれど、それでも感じた……
過去を引きずっている人間の、傷。
自分と同じ、ひと。
小さなことかもしれない、たいしたことじゃないのかもしれない。
それでも感じたその感情の糸を、翔太は自分に手繰り寄せたかった。
由比なら。
由比ならば、きっと一緒にいてくれる。
温かい優しさを与えてくれる。
きっと、俺と――
家族に……
そう思っていた矢先、由比が会社で何かあったらしくだんだん痩せていってしまった。
自分が彼女に何かしてあげたい、そう思ったけれど、どうすることも出来ず。
元気づけたくて、そしてそれ以上に自分を見て欲しくて。
……由比との年齢差に、歯がゆい思いを抱いていた。
子供としか、見てくれない由比。
そんな由比に見合う年齢の、圭介。
それを強く感じたのが、圭介と一緒に学校まで迎えに来たあの時。
そして、圭介に泣きついていたあの時。
タイミングだったのかもしれない。
たまたま、由比が弱っている時に。
たまたま、圭介がいた。
そう、思ってきたけれど。
思い込もうとしていたけど。
過去に飛ばしていた思考が、ほんの少し前の記憶を鮮明に脳裡に映し出す。
昨日まで、由比は家族にこだわってた。
圭介の存在をお兄ちゃんと呼び、翔太を弟を見る目で映す。
ずっと好意を伝えているのに、それでもなお親愛としての好意としかとってくれないことに寂しさを覚えつつ、けれど少しだけ安心していた。
翔太よりも遥かに圭介への感情が、家族のそれだと思えたから。
あまりにも圭介を頼り、圭介の行動に怯える由比の姿は、自分と少し重なって見えていたから。
翔太自身も大変だと思いつつ、圭介もまた難しいと思えていた。
親愛の情から、恋愛感情へと変化させることを。
昨日、圭介に対して怯えていた由比。
翔太がお兄ちゃんだから、と言い含めれば、少し複雑な表情だったけれど安堵していたのに。
年齢にこだわっていた自分が、どれだけ子供だったのかという事を思い知らされた。
翔太を見て目を逸らし、圭介を見て昨日とは違う意味で避けていたさっきの由比の姿。
そして、今日、由比に気持ちを告げたという圭介の言葉。
……理解、してしまった。
気が付いてしまった。
圭介の言葉で、由比の感情が、態度が、こんなにも変わってしまうのは―
「……はぁ」
わざと声に出して溜息をつくと、そのままごろりと背中から後ろに倒れ込んだ。
洋室を使っている翔太の部屋には、布団が敷いてある。
そこに背中から寝転がりながら、隣の壁……由比の部屋の方に顔を向けた。
「それでも……、諦めたくないんだよ……」
翔太は複雑な胸中を、溜息と共に吐き出した。